2011年11月06日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第65回「マルコによる福音書12章1〜12節」
(10/12/05)(その3)
(前号より続く)

 そして、その文書の中で、人々は神殿礼拝を守っているだろうが、
実は、神との契約をないがしろにし、異国人のように振る舞い、神
の言葉を曲げている、と非難しています。神殿改革が必要である、
との考えは、当時のユダヤ人の底流にありました。まり、イエスは、
それらの改革を求める人たちに、ユダヤ教改革者として受け容れら
れる可能性もあったということです。
 しかし、物語はさらに第三幕へと進んでまいります。

 6-8節「まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬って
くれるだろう』と言って、最後に息子を送った。農夫たちは話し合っ
た。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続
財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう
園の外に放り出してしまった。」

 普通なら、第二幕ですでにぶどう園の主人の怒りは頂点にまで達
し、農夫たちへの裁きが行われるところでしょう。しかし、忍耐強
いこの主人は、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と、今度
は自分の独り子をリース料の取立てのために遣わすこととなりまし
た。ところが、主人の期待に反し、農夫たちは息子の指示を無視し
たばかりではありませんでした。相続人を殺し、相続財産をすべて
我が物としよう、という最悪の企みを企て、しかもそれを実行して、
息子を殺し、ぶどう園の外へ放り出してしまいます。埋葬せずに、
死体遺棄までしてしまうのです。
 イスラエルの悪の極み、すなわちヘロデ治世下の社会の状況を反
映している、とも言われるところですが、肝心のサンヒドリンの議
員の反応はどうだったのでしょうか。幕間ごとの反応が記されてい
るわけではありませんので、あくまでも推測ですが、第三幕終了の
時点でも、イエスの物語に共感する者がいたのではないか、と推測
されます。なぜならば、神の愛する独り子とは、明らかに、神の代
理として遣わされた救い主、メシヤのことです。そのメシヤがみ業
のために言い尽くせぬ苦難と辱めを負うことは、すでにイザヤ書53
章などに預言されているからです。ただし、サンヒドリンが苦難の
メシヤを受け容れられるのは、そのメシヤの苦難がイスラエル再興
のために役立つ限りにおいて、でした。
 そして、第四幕、ここで物語の終幕は、サンヒドリンの思いとは
全く別の方向に向かうこととなりました。

 9節「さて、このぶどう園の主人はどうするだろうか。戻って来て
農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」

 さて、いよいよ主人が帰ってきました。ぶどう園の農夫たちをそ
れでも憐れみ、再出発を促したでしょうか。そうではありません。
すべてを打ち殺し、ぶどう園をほかの人、農夫と関係のない人に与
えました。イスラエルも滅び、神殿も滅びるのです。そして、神の
宮は、イスラエルと全く関係のない、異邦人の教会によって担われ
ることとなるのです。
 いくら良心的なサンヒドリンの議員でも、この第四幕は到底受け
容れることのできないものです。ユダヤ国家の滅亡を受け容れるこ
とはできません。
さらに、イエスは言葉を継がれました。

 10-11節「聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。
『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主
がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』」

 この言葉は詩編118:22-23の言葉です。サンヒドリンの議員にとっ
ては既知の言葉です。ユダヤ教では、この隅の首石を、ユダヤ教再
建のために捨石となった人々のこととして解釈してきました。しか
し、彼らはここで、イエスが、ご自身が捨石となって、ユダヤ教再
建ではなく、教会形成に仕える強いご意思を持っておられることを、
いやというほど知ることとなるのです。
 ゆえに、本日の物語の結末は次のようになることとなります。

12節「彼らは、イエスが自分たちにあてつけてこのたとえを話され
たと気づいたので、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。そ
れで、イエスをその場に残して立ち去った。」

 もう判決は出たようなものです。彼らがここでイエスを逮捕しな
かったのは、時と状況を見たから、だけです。ユダヤの滅びを訴え
る者を放ってはおけません。イエスは間もなく逮捕されることとな
るのです。
 ところで、ここには、同席していたはずの十二人の姿が全く見え
ません。彼らは、サンヒドリンに対してなすすべもありませんでし
た。が、そもそもイエスのおっしゃられたことが理解できていなかっ
たのです。しかし、イエスがここでおっしゃられたとおりに自ら教
会形成のための捨石となられたことを目の当たりにし、十二人は初
めて、自分たちも教会形成の担い手として立たせられるのです。私
たちも、今はこの時の十二弟子と同じかもしれません。が、イエス
との出会いを通して、立たせられた十二人の跡を継ぐ者でありたい、
と願うものです。

(この項、終わり)



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