2011年10月09日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第63回「マルコによる福音書11章20-25
節」
(10/11/21)(その2)
(前号より続く)
事がその通りに起こるのを見て、十二人は、イエスは本気で神の
国を完成させようとしておられることを知り、そして確信の予感を
得たのではないでしょうか。さて、枯れたいちじくに驚く十二人に、
イエスが言葉をかけられました。
22-23節「そこで、イエスは言われた。『神を信じなさい。はっき
り言っておく。だれでもこの山に向かい、「立ち上がって、海に飛
び込め」と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じる
ならば、その通りになる。』」
いちじくの木が根元から枯れた、神殿礼拝の時が終わった、とい
う現実に直面し、イエスが突然言われたことが、「神を信じなさい」
という言葉です。大変唐突な言葉です。枯れたいちじくとは全く関
係ない言葉のようにも聞えます、しかし、これは、神殿礼拝の終わ
りに当たり、イエスが新しい礼拝のあり方について指し示された一
言だったのです。
そもそもイエスは、神の国、神の支配の到来を告げるために宣教
活動を開始されました。最初はユダヤ教の会堂(シナゴグ)で宣教活
動をされました。が、そこには神の国の福音を受け止める信仰が欠
落していることを確認され、教会の建設に着手されたのです。十二
弟子の選任も、彼らをその教会のリーダーとするためです。そして、
今やイエスはエルサレムに乗り込まれ、神殿礼拝の終焉を宣言され
ました。すなわち、今この時から、神殿礼拝ではなく、教会の礼拝
が始まるのです。その教会の礼拝はどうあるべきでしょうか。その
教会の礼拝の原理が「神を信じる」なのです。
「神を信じなさい」は、原文では「神への信仰を持ちなさい」で
す。「神への信仰」という表現、聖書の中で頻繁に出てくるように
思えるかもしれませんが、実はここだけです。「神への信仰」とは
どういう意味なのでしょうか。それはこういう意味です。今まで、
神殿礼拝は、犠牲の献げ物を間に介在させた礼拝でした。神を礼拝
するのに、犠牲の献げ物が必要でした。しかし、教会の礼拝におい
ては、信仰による神との直接の交わりにおいて礼拝が成立するので
す。イエスが、「神への信仰」という特殊な用語をお用いになられ
たのは、礼拝する時、(犠牲ではなく)信仰をもってしなさい、との
意味合いを込めてのことなのです。
それでは「信仰」とはどういうことなのでしょうか。それはまず
第一に「信心」とはっきり区別されねばなりません。イエスと同時
代の文献にこんな話が載っています。あるラビが「いなごまめの木
が引き抜かれるように」と必死に祈ったところ、そのようになりま
した。そのラビは大変に「信心深い人」だったので…、というので
す。しかし、信仰によっては、いなごまめの木どころか、いくら祈っ
ても、消しゴムの一つすら動かすことはできません。では信仰とは
何か、と言えば、自分の力では一切できないことを、神はなしうる
と信じること、これが信仰です。「山を動かす」こと、これはいな
ごまめの木と違って、信心によっても困難でしょう。しかし、それ
を神はなしうる、と信じるのが信仰なのです。ちなみに「立ち上がっ
て、海に飛び込め」は、原文では「運ばれて、投げ入れられよ」で
す。「受動形」です。動かすのは、神なのです。
そのような信仰を持つことは、私には難しい、とだれでもが思う
ことでしょう。しかし、この時点ではまだですが、十二人は、イエ
スの十字架と復活とに出会った時、神は何でもしてくださる、とい
うことが示され、神は何でもできるということを知らされたのです。
直接示され、知らされた人だけではなく、私たちもこの事実を「う
ん、そうか、その通りだ」と受け止めるとき、そこに信仰があるの
です。教会の礼拝は、この「信仰」をもって神に近づくこと、と言
えます。
祈りについても同じ事態が起こっています。
24-25節「だから、言っておく。祈り求めるものはすべてすでに
得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、
立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦
してあげなさい。そうすればあなたがたの天の父も、あなたがたの
過ちを赦してくださる。」
神殿礼拝においては、神に祈りを聞いていただくためには、多く
の犠牲の献げ物を必要としました。犠牲の多寡によって、祈りが聞
かれたり、聞かれなかったりしたのです。しかしながら、この点に
ついても、この時点よりは先のこととなるのですが、イエスの十字
架と復活により、罪の赦しという、祈っても祈ってもなかなか安心
を得ることができなかった、最大の祈りの課題が完全に叶えられた
ことにより、私たちの祈り求めることはすべて、すでに叶えられて
いる、という時代に突入したのです。ですから、教会の、神の国の
教会の祈りは、「感謝の祈り」で十分なのです。もうすでに、私た
ちは祈り求める前からいただいてしまっているのですから、感謝を
もってそれを仲間に分かつこと、これが祈りの最大の課題となるの
です。「主の祈り」を祈ることが許される時代に入りました。ちな
みに25節は用語の面から言っても、主の祈りを反映しています。
イエスは、神の国の完成を目指して、新しい礼拝を用意しいてく
ださいます。私たちも例外なく、この礼拝に招かれています。
(この項終わり)
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