2011年10月02日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第62回「マルコによる福音書11章15-19
節」
(10/10/31)(その3)
(前号から続く)
イエスは、イスラエルが神殿を強盗の巣としてしまった、と言わ
れます。強盗という語は、泥棒と区別されます。神殿を通して利権
を得た、盗み取った、ということではなく、神殿を穴倉として、傲
慢に振舞った、ということです。イスラエルには、悔い改めが求め
られています。しかし、現実のイスラエルは、悔い改めとは逆の方
向へ向かいました。
18-19節「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをど
のようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていた
ので、彼らはイエスを恐れたからである。夕方になると、イエスは
都の外に出て行かれた。」
ガリラヤにおけるファリサイ派と同じく、ここエルサレムにおい
ては、祭司長たちが律法学者たちと共にイエスに抵抗します。彼ら
は神の前に出て悔い改めることをせず、神殿礼拝の特権にしがみつ
き、イエスをただ単に「秩序を乱す者」「反逆者」として殺す道を
求め始めました。彼らの罪のゆえに、ますます十字架は近くなりま
した。が、イエスの十字架は、神殿礼拝に別れを告げるだけではな
く、新しい教会の形成へとつながっていることを忘れてはなりませ
ん。十字架の時がまだ来ていないイエスは、神殿の運命を確かめる
ため、もう一度、「十二人」と共にエルサレムの外へ出られること
となりました。
私たちにも、イエスの十字架を前にして、神の前に出て悔い改め
ることが求められています。
(この項、終わり)
第63回「マルコによる福音書11章20-25節」
(10/11/21)(その1)
21節「翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元
から枯れているのを見た。そこで、ペトロは思い出してイエスに言っ
た。『先生、ご覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯
れています。』」
エルサレムに入城された日の午後、神殿を下見されたイエスは、
翌日、所謂宮きよめをされました。神殿の境内に入り、そこで売り
買いをしている人たちを追い出し、両替人の台や、鳩を売る者の腰
掛けをひっくり返されました。このイエスの行為は、「商人と神殿
当局者との間の癒着を正すためのもの」ではありません。もし、そ
うであったならば、イエスの行為は、ユダヤ教の歴史の中でしばし
ば行われてきた神殿改革の延長線上にあることとなります。そうで
はなく、イエスの行為は、その日の朝通りがかりに見つけられた
「実のないいちじくの木」に対して「枯れよ」と命じられた象徴行
動から理解されねばなりません。いちじくの実は、律法のたとえと
看做されてきました。いちじくの実に見えるものですが、実は花で
す。中に多くの花が込められています。いちじくが、かめばかむほ
ど味わい深いように、神の戒めもかめばかむほど味わい深い、とい
うわけです。が、イスラエルが、与えられてきた豊かな実(花)を感
謝しつつ受け止めてきたか、と言うと、現実は逆です。そこで、ホ
セア書2:4にあるごとく、「裁きの日、神はイスラエルに与えられた
いちじくの木を取り去られる」のです。神は律法を取り去られるの
です。律法がいちじくの実だとすると、木は神殿ですから、木ごと
取り去られるということは、神殿礼拝そのものができなくされる、
ということです。イエスは、神殿礼拝になくてはならない役割を果
たしてきた両替人や鳩を売る者の台をひっくり返すことによって、
神殿礼拝そのものの終焉を告げられたのです。そして、神殿礼拝の
終焉を、いちじくの木に「枯れよ」と命じられることによって、さ
し示されたのです。
さて、本日は、そのイエスの象徴行動の対象とされた、いちじく
の木の運命から話が始まります。宮きよめの翌日、一行は、根元か
ら枯れているいちじくの木を見ました。うっかりすると、見過ごし
てしまう光景です。しかし、十二人の代表たるペトロが、「今から
後いつまでも、お前から実を食べる者がないように(14節)」とのイ
エスのご命令を思い出して、結び付けました。そして、ご命令どお
りのことが成ったのを知って、恐れを抱いたのです。マルコによれ
ば、ペトロはもう一度、イエスの言葉どおりに事がなって、恐れを
抱いたことがありました。イエスのことを三度知らない、と言って
しまった、その時です。この時も、「あなたは今日、今夜、鶏が二
度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう(14:30)、と
言われたイエスの言葉を思い出し、大いに恐れ、泣き出してしまい
ました(14:72)。
エルサレム神殿本体に関しても、マルコによる福音書がまとめら
れて間もなく、紀元後70年、ユダヤ戦争に際し、ローマ軍によって
火をかけられ、本当に崩壊してしまいました。この事実に直面し、
宮きよめを実際に目撃した十二人は、宮きよめを思い起こし、その
時イエスが示されたことが本当に起こったことを目の当たりにし、
大いに恐れを抱いたのではないでしょうか。
イエスが、神の国完成へのプロセスとして、「このことが起こる」
「このようになれ」と言われたり、命じられたりしたこと、それを
耳にしたとき、十二人はせいぜい半信半疑だったことでしょう。
(この項、続く)
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