2011年09月25日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第62回「マルコによる福音書11章15-19
節」
(10/10/31)(その2)
(前号から続く)
一方では律法を再発見、再遵守し、他方では神殿を再建したので
す。そしてイスラエル国家の再建を目指しました。この時再建され
た神殿が第二神殿です。第二神殿は、その後ギリシア、ローマの支
配の下で、冒瀆され、傷つけられましたが、再浄化され、そしてヘ
ロデ大王の大改修工事によって、見事に生まれ変わり、そしてイエ
スの時代を迎えるのです。当時の神殿は、イスラエルの希望であり
ました。ゆえに、敬虔なユダヤ教徒であれば、まず厳かな思いをもっ
て礼拝をなすべきところなのです。が、イエスのなさったことは違
いました。
15b-16節「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた
人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり
返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかっ
た。」
イエス当時の第二神殿は、南北500m、東西300mのほぼ長方形、
その神殿の境内のほぼ三分の一は、英語では「Great Court」、日本
では「異邦人の庭」と呼ばれている広大な空間です。そこには、異
邦人も入って礼拝することができました。が、中央西半分に、垣に
囲まれた聖所があり、その垣の中は、イスラエル人のみが入ること
が許されていました。本来でしたら、聖所に入って礼拝を献げるべ
きところ、イエスは神殿の境内に入られるとすぐに、「Great Court」
で売り買いをしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る
者の腰掛けをひっくり返し、境内を通って器物を運ぶことを禁じら
れたのでした。
エルサレム神殿で売り買いする者は、日本の祭りの際に見られる
「テキヤ」とは違います。礼拝に必要な犠牲の献げ物を売る人です。
鳩を売る者もそうです。また、両替人については、イスラエル青年
男子の登録に関係します。出エジプト記30:11-16にしたがって、イ
スラエルの男子は20歳になったら、神殿に登録をせねばなりません。
その際の登録料が、銀半シェケルです。ユダヤ以外の地に住む巡礼
者はシェケルを持ち合わせていませんので、両替が行われたのです。
つまり、彼らは神殿礼拝に欠かせない存在でした。
イエスが神殿で神殿改革をなそうとされたことは確かです。しか
し、なぜ、犠牲の販売をしている人を追い出し、両替商の妨害をさ
れたのでしょうか。彼らに何か問題があったのでしょうか。よく言
われる俗説は、両替商や商売人が、巡礼者の弱みに付け込んで、高
額の利ざやを取っており、そして神殿当局者もこれらの業者からリ
ベートを取って、私服を肥やしていた、とする説です。それゆえ、
イエスはこれらの不正を怒られた、というわけです。しかし、当時
そのような不正が行われていた、とする証拠はありません。憶測に
過ぎません。
とは言え、イエスが神殿の無用な通り抜けを禁止されたというこ
とは、神殿の清めの意味があったと考えられますから、その点で何
か問題があったのではないでしょうか。あるとすれば、一つは、両
替の際にシールが必要とされていた、ということです。献げ物にそ
のようなシールが必要なのか、という議論が当時ありました。もう
一つは、礼拝の犠牲のための献げ物とはいえ、動物たちを神殿の境
内に置いていいか、という点については大いに議論があった、とい
うことです。ヨセフスによれば、その動物たちは本来はオリブ山に
置かれていた、とのことですが、紀元後30年ごろの、大祭司カイア
ファの改革で、境内に置くこととなったのです。これらの点を問題
視して、イエスが行動を起こされたとすれば、少々過激ではありま
すが、当時のユダヤ教徒にも得心の行く行動でした。そして、ユダ
ヤ教の枠内の行動でした。しかし、イエスのなされたことは、ユダ
ヤ教の枠を超えていました。
17節「そして、人々に教えて言われた。『こう書いてあるではな
いか。「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべき
である。」ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。』」
ここで、私たちは、マルコにおいては、宮きよめの出来事が、い
ちじくの木事件とサンドイッチ、一体であったことを、思い起こさ
ねばなりません。イエスがいちじくの木に「枯れよ」と命じられた
のは、いちじくの木が悪かったからではありませんでした。イエス
が、ここエルサレムに立たれて、十字架において神の国、神の支配
を完成させようとしておられるこの時、それは同時に、イスラエル
にとっては、今まで恵みとして、特権として与えられていたものが、
取り去られる裁きの時であることを示すしるしでした。イスラエル
にとって最大の特権は何でしょうか。それは、神殿において礼拝を
守ることが許されてきた、ということです。しかし、十字架を前に
して、イスラエルは神の前に出ねばなりません。神の前に出た時に、
イスラエルのどのような歩みが見えてくるでしょうか。イスラエル
は正しい歩みをしてきたでしょうか。「わたしの家はすべての国の
人の祈りの家と呼ばれるべきである(イザヤ書53:7)」と記されてい
るごとく、イスラエルは、すべて民のためのとりなしをしてきたで
しょうか。してこなかったのではないでしょうか。
(この項、続く)
(C)2001-2011 MIYAKE, Nobuyuki &
Motosumiyoshi Church All rights reserved.