2011年09月11日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第61回「マルコによる福音書11章11〜14 節」
(10/10/24)(その2)
(前号より続く)

 このマルコの記述は、イエスがエルサレム入城をされてから、た
だちに神殿に赴かれて宮きよめをされたとするマタイ、ルカの記述
と大いに異なっています。どちらが事実か、事実に近いか、という
ことについては、判定不可能です。が、マルコの記事が事実に近い
かどうかはともかくとして、マルコによれば、イエスが「宮きよめ」
への準備に入られた後に、つまり、「宮きよめ」の一連の行動の中
において、いちじくの木の事件が起こったことになります。そのい
ちじくの木事件とはどのようなものだったのでしょうか。

 12-13節「翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚
えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実が
なってはいないかと近寄られたが、葉のほかはなにもなかった。い
ちじくの季節ではなかったからである。」

 翌日のことですが、イエスはベタニアを出て、「宮きよめ」のた
めにエルサレムへ向かわれました。「一行」となっていますが、11
節に従えば、十二人がお供したのでしょう。その途中で、イエスは
空腹を覚えられました。原文では「飢えた」となっており、よほど
お腹がすかれたのでしょう。ふと見ると、多分道端に、遠くからい
ちじくの木を見出されました。葉が茂っています。「実がなっては
いないか」と意訳されていますが、原文は「何かありはしないか」
です。もっとも、空腹時にいちじくの木に期待するのは当然実でしょ
うから、イエスは実を期待されていちじくの木に近寄られました。
しかし、葉のほかには何もありませんでした。おそらく、がっかり
されたことでしょう。もっとも、それはいちじくの木のせいではあ
りません。この出来事が、十字架の直前、すなわち過越祭の直前の
出来事であったとすると、それは3月ごろ、いちじくの花が咲く、
すなわち実のなる季節、6月にはまだ間があるのです。たとえ、百
歩譲って、イエスが、前年に実って年を越しても残った実を求めら
れたとしても、3月には残っていないのが普通です。「いちじくの
季節ではなかったからである」と記されている通りです。この際、
あきらめるのが普通です。ところが、イエスは、思いがけない行動
に出られました。

 14節「イエスはその木に向かって、『今から後いつまでも、お前
から実を食べる者がないように』と言われた。弟子たちはこれを聞
いていた。」

 原文では、「その木に向かって」とは書かれていません。「その
木に答えて」です。イエスは突然、その木に、人に対するかのよう
に話しかけられ始めました。何を話したのでしょうか。厳しい内容
でした。「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないよう
に」です。そして、この「食べないように」ですが、希求法という
珍しい時制が使われています。話し手の願望を表現するのですが、
意味はほとんど命令です。要するに、イエスは木に「枯れよ」と命
令されたのです。
 イエスが自然に向かって命令されることは、かつてもありました
(4:35)。イエスと弟子たちとがガリラヤ湖を航海中に、激しい突風
に遭い、舟が転覆しそうになって、弟子たちがおぼれる恐怖に襲わ
れた時、イエスは風を叱り、湖に「黙れ、静まれ」と命令された時
のことです。そもそもイエスは人としてこの世に来られたのですか
ら、その神の子としてのお姿は隠されます。しかし、弟子たちの危
機に際し、弟子たちを救うために、例外的に、自然をも支配される
お力を示されたのです。もちろん、イエスのご命令どおり、風はや
み、湖は凪になりました。ここでも、イエスは、神の子としてのお
力を例外的に示され、いちじくの木に「枯れよ」と命じられ、そし
てその通りになったのです。
 しかし、ここは前回の湖上の場面と違って、イエスがそのご権能
を示された原因はご自身の空腹であられ、そしてその理由は、いち
じくの木が季節外れの時期に実を実らせることができなかったから
です。だとすれば、イエスのなされたことはあまりにも身勝手なの
ではないでしょうか。そしてそれは、神の国、神の支配の始まりを
告げ知らせるためにこの世に来られ、そして今まさにその完成のた
めにご自身が犠牲になられようとしておられるイエスのあられ様と
はあまりにもかけ離れたものなのではないでしょうか。
 この疑問の答えを得るためには、マルコによる福音書を、もう一
度深く読む必要があります。「深く」とはどういうことか、と言え
ば、11:11〜、イエスは宮きよめの準備をされた後、いちじくの木に
「枯れよ」と命令され、その後、イエスはそのご命令を「宮きよめ
において」実行され、そしていちじくの枯死をもって、「宮きよめ
の結果」を確認された、という流れを見失わないことです。すなわ
ち、いちじくの木へのご命令は、宮きよめに際してのイエスのご意
志をそのまま表している、ということです。
 いちじくは、葉についてばかりでなく、実についてもたびたび旧
約聖書でも取り上げられてきました。その一つが、本日の旧約書、
箴言27:18です。

27:18「いちじくの番人はいちじくを食べる。」

ここで言う「いちじく(実)」とは何でしょうか。

(この項、続く)



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