2011年08月28日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第60回「マルコによる福音書11章1〜10節」
(10/09/26)(その2)
(前号より続く)

 1節後半〜3節「イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言わ
れた。『向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗っ
たことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、
連れて来なさい。もし、だれかが「なぜ、そんなことをするのか」と
言ったら、「主がお入り用なのです。すぐにここにお返しになりま
す」と言いなさい。』」

 事の経過はこうです。エルサレムへ入場するに際し、これは後で
わかることですが、イエスは子ろば(子馬とも訳せます)に乗って入
城することを画策されました。子ろばをどこかで調達せねばなりま
せん。そのために、二人の弟子を遣わすこととされました。しかし、
どこでどのように調達したらいのか、雲をつかむような話です。と
ころが、イエスは、ベタニア村へも、ベトファゲ村へもまだ一度も
行かれたことがないはずなのに、どちらかの村で、子ろばがつなが
れている、と言い、それを引いてきなさい、と言われるのです。さ
らに、近くにいる人が「なぜ、そんなことをするのか」と聞くであ
ろうことまで予言され、その時どう言えば許してくれるかまで弟子
たちに教えたのです。イエスがなぜ子ろばを所望されたのか、とい
う問題はさておいて、私たちの目には、イエスが遠くのこと、これ
から起こることを知っていらしたということは、大変不思議に思え
ます。
 そもそもイエスは、神の子であられるからして、何でもできてお
かしくはありません。しかし、イエスはあくまでも人としてこの世
に来られましたから、ご自分の神としてのお姿をお顕しになられる
のはごく稀なことでした。ここは、どうでしょうか。ここでも、イ
エスがその神性をお顕しになられたのではないとすると、事態は次
のようにも説明できるのではないでしょうか。
 この子ろばの持ち主は、イエスの弟子の一人だったのではないで
しょうか。イエスがこの地にいらしたのは初めてのことですので、
ガリラヤのカファルナウムからイエスと行動を共にしてきた「十二
人」やその他の弟子たちの仲間とは考えにくいのですが、イエスが
エルサレムに上って行かれる途上で(10:31)、イエスに従うように
なった一人とも考えられます。イエスがエルサレムに入城されるに
当たり、子ろばを所望されていることを知り、自分の子ろばを提供
することとなりました。この人は、イエスに従っていたでしょうが、
持ち主であるからして、子ろばがどこにつながれているかは知って
いたはずですし、世話をしている人が、どのように言えば、その子
ろばを手渡してくれるかも十分承知していたはずです。3節の「主」
は、主イエスの「主」ではなく、「主人」の意味となります。「主
人が必要としています」と言えば、世話をしている人は快く引き渡
してくれるということです。この人はその一部始終をイエスに話し、
イエスはこの人が言った通りに弟子たちに指示を出されたというこ
とになります。
 が、子ろばの持ち主たる弟子の存在については、マルコは一切触
れていません。つまり、以上述べたことは推測に過ぎません。また、
ルカによるエルサレム入城の物語では、二人の弟子が子ろばをほど
いていると、その持ち主が「なぜ、子ろばをほどくのか」と問いた
だすことになっています。つまり、この推測は、ルカの物語とは矛
盾するということです。しかし、バルティマイの物語において、ほ
とんど現世利益の信仰に過ぎなかったバルティマイの信仰を受け容
れて、「イエスに従う」ことを通して本当の信仰に至らしめたイエス
は、ここでも、神の子だからと言って、いきなり超自然的超能力を
お用いになられるのではなくて、一人の人の小さな奉仕の思いを用
いられて、大きなみ業をなされる準備をされた、その可能性もある
のではないでしょうか。私たちも、徒にイエスの超自然的力から何
かをいただくことを期待するのではなく、自分が何をもってイエス
に仕えることができるか、そのことに心を砕くべきなのではないで
しょうか。
 さて、それではそのみ業とは何か、ということになりますが、そ
の前に二人の弟子の反応を見てみましょう。

 4-6節「二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつない
であるのを見かけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わ
せたある人々が、『その子ろばをほどいてどうするのか』と言った。
二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。」

 この二人とはだれでしょうか。子ろばを連れて来ることを「雑用」
と考えると、だれでもよいことになってしまいます。が、それはイ
エスがみ業をなされる準備ですから、五千人の供食の場合と同じく、
「十二人」の中の二人だったのではないでしょうか。ヤコブとヨハ
ネであった可能性も考えられます。
 イエスの指示を受けた二人ですが、五千人の供食の時の弟子たち
のように、「そうおっしゃっても、子ろばが本当にいるかどうか、わ
からないではないですか」とか、「子ろばを借りに行った方が早いの
ではないですか」と抗弁することはしませんでした。二人は、イエ
スの指示に忠実に従いました。十字架への準備は、「十二人」の中
でもなされてはいたのです。

(この項、続く)



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