2011年08月14日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第59回「マルコによる福音書10章46〜52
節」
(10/09/19)(その2)
(前号より続く)
しかし、わかった途端、「わたしを憐れんでください」と叫び始
めたのです。この「憐れみ」という語は、5:19、イエスが悪霊憑き
を癒した時にも用いられています。「治してください」という意味
です。ガリラヤから遥か離れたエリコでも、すぐれた癒し手として
のナザレのイエスの評判は、町の隅々にまで行き渡っていました。
と、ここまでは、今までイエスが遭遇された場面とよく似ています。
しかし、バルティマイがイエスを「ダビデの子」と叫んだ、その呼
び方は異例です。マルコでは、ここが「初めて」です。そもそも
「ダビデの子」という表現は、どういう意味なのでしょうか。いく
つかの意味があるようですが、バルティマイはどういう意味でこの
表現を使ったのでしょうか。
まず第一に考えられるのは、「子」とは子孫の意味でもあります
から、バルティマイの名前と同じように、イエスをダビデの子孫と
いう意味で「ダビデの子」と呼んだケースではないか、ということ
です。しかし、イエスは「ナザレのイエス」とは呼ばれていても、
「ダビデの子」とは呼ばれてこなかったようですので、このケース
はほとんど考えられません。
第二は、バルティマイが「メシア(救い主)」との意味でイエスのこ
とを「ダビデの子」と呼んだケースです。実際、「神から遣わされ
た救い主(メシア)は、ダビデ家から出る」というメッセージは、預
言者がイスラエルの民に与えた希望でした。その預言は、すでにダ
ビデ在世中に、預言者ナタンによって与えられています(サムエル記
下7:12)。そして、バビロン捕囚に極まる国家の危機に、この預言は、
イザヤ、エレミヤを始めとする預言者たちによって、たびたび発せ
られました。そして、後にユダヤがローマの信徒への手紙講解説教
の支配に苦しむ、イエスの時代にまで語り継がれてきたのです。そ
のメシア願望をバルティマイも共有していて、直感的にか、あるい
は聖霊の導きによってか、イエスのことを「ダビデの子、メシア」で
あると確信して、そしてそのメシアのしるしとして病気を治してい
ただけるに違いないと考えて、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐
れんでください」と叫んだ、とも考えられます。多くの人が、バル
ティマイの言葉をそのように受けとってきました。しかし、マルコ
による福音書を読んできた私たちにとって、一点気になることがあ
ります。それは、マルコを通じて、イエスが「神から来られた方」
であることを見抜くことができたのは悪霊(ダイモニオン)だけであっ
た(1:24など)ということです。バルティマイがイエスの素性を見抜
くことができたということは、彼が悪霊憑きだったということなの
でしょうか。
しかし、第三のケースが考えられます。バルティマイが「ダビデ
の子」という呼称を、第一、第二とは全く違う意味で使っていたと
するケースです。死海周辺の洞穴から発見された、イエスと同世代
のエッセネ派が残した文書、死海写本の中に、『ダビデの詩編』と
呼ばれる書が発見されました。そこには、悪霊に取りつかれた者へ
の呪文が記されていました。この『ダビデの詩編』がエッセネ派の
中でどの程度市民権を得ていたのか、それは不明です。しかし、エッ
セネ派の中では、ダビデはメシアの祖先であると同時に、医師ない
し、呪術師の祖先と見られていた形跡もあるのです。エッセネ派の
外でも、ダビデの子ソロモンが同じように見られていたことが、ヨ
セフスによって記録されています。イエスの時代、民間では、ダビ
デは、病人や悪霊憑きを癒すために神から遣わされた者と受け取ら
れていた可能性があります。
ところで、仏教では喜捨を求めて家々を訪ね歩く乞食(こつじき)
という行(ぎょう)があります。人が人の情けにすがって生きていか
ねばならない、となった時、人はどのような思いに至るのでしょう
か。「ともかくここから脱したい」という思いでいっぱいなのでは
ないでしょうか。「目さえ癒されれば。…」 古来日本人が、目の癒
しを求めて薬師如来にすがったごとく、バルティマイも、イエスに
「癒しのカミ、ダビデの子よ」とすがったのではないでしょうか。
48節「多くの人が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、
『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた。」
生活がかかった願い、要求、表面的には悪霊憑きにさえ見えたか
もしれません。人々は恐れて叱りつけますが、彼はますます叫び続
け、悪循環にさえ陥りました。
49-50節「イエスは立ち止まって、『あの男を呼んできなさい』と
言われた。人々は盲人を呼んで言った。『安心しなさい。立ちなさ
い。お呼びだ。』盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのと
ころに来た。」
イエスは彼を呼ばれました。「呼ぶ」と訳されている語は、マル
コでは三箇所だけで用いられています。一箇所は(残念ながら)ただ
の「呼ぶ」です(15:35)。もう一箇所は、二度目の受難予告の後、
イエスが「だれが偉いか」と議論している「十二人」を呼び寄せた、
その「呼ぶ」です。「十二人」を救いに至らせるために、呼ばれま
した。ここでもこの男(バルティマイ)を救いに与らせるために呼ば
れました。
(この項、続く)
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