2011年08月07日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第58回「マルコによる福音書10章35〜45
節」
(10/09/12)(その3)
(前号より続く)
イエスにはそれがわかっていましたから、「できます」と答えた
二人の決意表明が空しく、悲しいのです。そしてイエスは、この二
人のためにも死にました。もうこれですべてが失われたと思われま
したが、よみがえりのイエスに出会って、やっと十字架がわかった
二人は、初めてしっかりと立ち上がることとなります。その時には、
勝利を当てにしての苦難ではなく、キリストと共に死ぬ苦難に、二
人も共に与ることとなりました。キリストと共に死ぬ苦難とは、必
ずしも殉教だけを指すわけではありませんが、ヤコブは実際に殉教
しました(使徒言行録12:2)。イエスはこのことをもすでに察知して、
「たしかに、あなたがたはわたしの飲む杯を飲み、わたしが受ける
バプテスマを受けることになる」と言われたのかも知れません。勝
利を当てにしてのキリストへの服従を捨て去ったならば、ランキン
グへのこだわりはどうでもいいのです。イエスご自身がランキング
へのこだわりがないのです。愛情あふれるイエスの言葉を、この二
人はやがて受け止めることができるようになったのではないでしょ
うか。
しかし、十人は取り残されたままでした。
41節〜「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのこと
で腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。
『あなた方も知っているように、異邦人の間では、支配者とみなさ
れている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。し
かし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉く
なりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、
すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕
えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるため
に来たのである。』」
「十人」が腹を立てたのは、ランキングへのこだわりだけからだっ
たようです。それでイエスは神の前でのランキングが罪であること、
それを「十二人」は知っているべきこと、そして、9:35で教えられ
た教えをもう一度繰り返されます。しかし、イエスの言う「仕える」
とはどういうことなのでしょうか。イエスは、十字架の業が仕える
ことであることを今、はっきりとおっしゃいます。十字架とは「多
くの人の身代金として自分の命を献げる」こと、つまり、自分は死
んでも人を生かすということなのです。そのようなことは到底でき
ない、と私たちは思います。十二人もそう思ったことでしょう。し
かしイエスは、実際に十字架に架かられて、その言葉の真実である
ことを証明されました。そして、ペトロがそうであったように、イ
エスが死んで自分が代わりに生かされていることを知って、「仕え
る」ことのまことの意味に目覚めたのではないでしょうか。
私たちもキリストに生かされた一人一人です。このことに気づい
たならば、私たちも「仕える」人生を志すべきではないでしょうか。
(この項、終わり)
第59回「マルコによる福音書10章46〜52節」
(10/09/19)(その1)
46節「一行はエリコの町に着いた。イエスが大勢の群衆と一緒に、
エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子でバルティマイと
いう盲人の物乞いが道端に座っていた。」
いよいよエルサレム入城直前となりました。マルコにおいては、
エルサレム入城前、最後の出来事です。場所はエリコ、エルサレム
から北東へ24km、ヨルダン川沿いの町です。ヨルダン川沿いと言っ
ても、ヨルダン川そのものからは8km離れています。よいサマリア
人譬えでよく知られているとおり、エリコからエルサレムへの道は、
直線距離としては24kmですが、高度差が1,200m近くあり、急峻な
道です。イエスと「十二人」そして弟子たちと従う者たちは、その
エリコの町に着きました。そして、町を出て、いよいよエルサレム
へと上る道を歩もうとされたその時、ティマイの子バルティマイと
いう盲人の物乞いが道端に座っているのと出くわすこととなりまし
た。なお、イエスに従う者たちは、群衆、それも相当数の群衆にま
で膨れ上がっていたようです。
物乞いとは、路上に座って喜捨を受けることによって生活してい
る人のことです。当時のユダヤでも多く見かけられたのでしょう。
しかし、その人の名は、ほとんど知られていなかったのではないで
しょうか。にもかかわらず、ここに登場する盲人の物乞いの名が
「ティマイの子、バルティマイ」と正式の呼称で記録されているこ
とは、極めて異例のことではないでしょうか。大きなみ業が用意さ
れている予感が与えられているのです。
47節「ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、『ダビデの子イエス
よ、わたしを憐れんでください』と言い始めた。」
ルカの似た物語によれば、雑踏の中で異様な雰囲気を感じ取った
盲人の物乞いが、「これはいったい何事ですか」と聞いたところ、
だれかが「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせ、それで叫び始め
たことになっています。マルコの場合、そのような注釈がないので、
なぜ、バルティマイがそこを通るのがイエスだとわかったのかは、
不明です。
(この項、続く)
(C)2001-2011 MIYAKE, Nobuyuki &
Motosumiyoshi Church All rights reserved.