2011年07月24日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第57回「マルコによる福音書10章32〜34 節」
(10/09/05)(その3)
(前号より続く)

 ドラマの展開としては、ここで十二人の反応が示されるはずです。
十二人は全員ユダヤ人です。だとすると、今までの生涯で、少なく
とも、一度は十字架刑を目の当たりにしているのではないでしょう
か。私たちのように、頭の中で想像するだけではなくて、イエスの
この話を聞いて、その時目にした、耳にした囚人たちの悲痛な叫び、
うめき、もがきが再現したのではないでしょうか。しかも、イエス
の場合には、本来でしたらユダヤ人を異邦人から守るべき立場にあ
る祭司長、律法学者らが、イエスを十字架刑へと仕向け、異邦人へ
と引き渡すというのですから、それがいかに侮辱であるか、ユダヤ
人である彼らは、いやというほどよくわかったはずです。
 本来でしたら十二人は深い悲しみに打ちひしがれたはずです。し
かし、31節以降の反応はそれとはかけ離れたものでした。十二人は
イエスに一体何を見、イエスから一体何を聞いてきたのでしょうか。
そしてこの十二人のふがいなさは、「十二人の一人(14:4)」である
イスカリオテのユダのイエスを売る行為にまで行き着くのです。私
たちは十二人の姿を他人ごととして捉え、十二人を批判するかもし
れませんが、「召された」十二人さえかくのごときであったというこ
とは、私たちは十二人にも達していない、ということなのではない
でしょうか。
 こうして、第二幕は、その出だしからして十字架を受け容れられ
ない十二人の実態を暴露することとなってしまいました。この後、
一体どうなることでしょうか。
 しかしこの時、重い第二幕の出だしにおいて、「人の子は三日後
に復活する」という十二人が思い及びもしなかった希望の光がはっ
きりと告げられたことも事実です。罪の闇が深まるところにこそ、
救いのともし火がともされるのです。

(この項、終わり)


第58回「マルコによる福音書10章35〜45節」
(10/09/12)(その1)

 35節「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが、進み出て、イエスに言っ
た。『先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。』」

 いよいよイエスの十字架が迫っているのに、弟子たちが、特に将
来神の国の新しい十二部族の教会のリーダーとなるべき十二人が、
十字架を、しかも三回にわたる受難予告がありながらわかっていな
い、という事態に直面することとなりました。
 物語は、「十二人」の中のヤコブとヨハネとがイエスの許に進み
出て、「お願いがあるのですが」と願い事を申し上げるところから
始まります。ところで、マタイにおいても、イエスの三度目の受難
予告の後、この二人がイエスに願い事を願い出るという展開になっ
ていますが、マタイの物語では母親同伴です。実際にイエスのとこ
ろへ願い事をしに行ったのが二人だけだったのか、それとも母親同
伴だったのか、それは確かめようもありませんが、もしも母親同伴
だったとすれば、母親は三度目の受難予告の際にはいなかったので
すから、受難予告に関係なく、受難予告があろうがなかろうが、こ
の家族の「たっての願い」を申し上げたこととなります。一方マル
コの伝える物語が事実に近いとすれば、二人は三度目の受難予告を
確かに聞いているのですから、かねがね願っていたことではあると
しても、二人は受難予告にも反応して、イエスに願い事を申し上げ
たこととなります。私たちは、マルコの物語に固着して、この物語
を見ていくことと致しましょう。

 36節「イエスが、『何をしてほしいのか』と言われると」

 私たちが願い事をされた場合、その願いに応えられるかどうかは、
その願いの中身次第であることは、言うまでもありません。しかし、
それと同時に、そもそもその願い事をした相手が、願い事を叶えて
あげるに価するかどうか、相手次第でもあります。イエスにとって
この二人はどうだったのでしょうか。この点についても、マルコと
マタイでは異なっています。マタイの物語では、イエスが三人に発
した言葉は、「何が望みか」でした。直訳すれば、「あなたがたは
何を望んでいるか」です。これは、願い事がかなうかどうかは内容
次第、ということです。相手の願いを何とか叶えてあげよう、とい
う思いは伝わってきません。一方、マルコの物語では、イエスは
「何をしてほしいのか」と尋ねています。原文を直訳してみますと
かなり違っていまして、「私があなた方のために何をすることを、
あなた方は私に願うのか」です。文法的には異例の表現なのですが、
「私はあなた方の願い事をかなえるために何かしてあげたいのだ」
という愛情が伝わってくる表現なのではないでしょうか。
 しかし、イエスの愛にもかかわらず、二人の願いは、十字架を告
知された者としては、受難予告に対する反応としては、問題ある発
言でした。

 37節「二人は言った。『栄光をお受けになるとき、わたしどもの
一人をあなたの右に、もう一人をあなたの左に座らせてください。』」

(この項、続く)



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