2011年07月10日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第56回「マルコによる福音書10章17〜31
節」
(10/08/29)(その3)
(前号から続く)
先に、子供が十字架を受け容れる第一号となりましたが、この人
は、十字架を受け入れるための道を具体的に示されながら、それで
も十字架を受け容れない第一号となってしまいました。たくさんの
財産を持っていたからでした。そして、イエスの言葉に従って、そ
れを神を愛する証しとして献げることができなかったからでした。
そして、ここからが弟子たちへの教育の部分です。
23節以降「イエスは弟子たちを見回して言われた。『財産のある
者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。』弟子たちはこの言
葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。『子たちよ、
神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよ
りも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』弟子たちはますま
す驚いて、『それでは、だれが救われるのだろうか』と互いに言っ
た。イエスは彼らを見つめて言われた。『人間にできることではな
いが、神にはできる。神は何でもできるからだ。』ペトロがイエス
に、『このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従ってま
いりました』と言いだした。イエスは言われた。『はっきり言って
おく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、
子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、
兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の生命を受
ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が
先になる。』」
十字架へ向かうイエスが、もっとも願われることは、そこまでし
て与えようとしておられる神の恵み、神の国、神の支配に皆が与っ
てほしい、ということです。しかし一方、実際に一人の人がそうで
あったように、富の魅力に人は本当に弱い、ということ、そしてそ
の魅力は、イエスの言葉に聞き従うことに、しばしば勝るというこ
とです。その現実を、イエスはらくだと針の穴のたとえで表現され
ました。どうしたら、神の国、神の支配に与ることができるのでしょ
うか。ペトロのように、「私はこれを捨てました」競争をしても意
味はありません。なぜなら、そのペトロも、実は家、舟を捨てては
いないからです。結局、「人間にはできないが、神にはできる」と
のお言葉によりすがること、つまり、神により近くあろうと求め続
けること、具体的には、礼拝に出席し続けること、そこに、神の国、
神の支配に与る秘訣があるのではないでしょうか。それでしたら、
私たちにもできるはずです。礼拝を大切に守っていきましょう。
(この項、終わり)
第57回「マルコによる福音書10章32〜34節」
(10/09/05)(その1)
32節前半「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に
立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たち
は恐れた。」
いよいよ本当にイエスの十字架が近づいてきました。イエスはす
でに、故郷ナザレで受け容れられなかった時、神の国の教会の建設
を決意され、神の国の完成としての十字架への道を歩み始められま
した。死と復活とを弟子たちに宣言されてからは、十字架への道を
一直線に歩まれ、10章に至って、ついにユダヤ地方へ入られました。
しかし、イエスの行く先として、十字架の地エルサレムが明示さ
れることは、今まで一度もありませんでした。その目的の地が今初
めて明かされ、いよいよイエスはエルサレムに向けての行進を開始
されたのです。当時のユダヤ教団においても、ラビと弟子たちが何
か行動を起こそうとするとき、ラビが先頭に立って行進したとのこ
とです。イエスもそれに倣って先頭を切って歩んで行かれました。
しかしイエス集団には、尋常ではない雰囲気が漂っていました。
32節後半「それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」
その異様な雰囲気はそもそもイエスから発せられたものでした。
マルコでは弟子たちが驚いた、と記されていますが、マルコの元に
なった資料では、「イエスは驚き」と記されていたのではないかと
推測する人がいます。この「驚く」と訳されている語は、「びっく
り仰天」と訳すのが適切なくらいの語で、感情が強く動かされてい
ることを表します。目標の地エルサレムを初めて明確に意識されて
行進を開始されたイエスにとって、その先にある十字架を思うとき、
心が異様に震えざるを得なかったのではないでしょうか。そのイエ
スの心の動揺は、長らく行動を共にしている弟子たちにも自然に伝
わるところとなり、弟子たちも激しく心が動かされることとなった
のではないでしょうか。
テキストを素直に読むと、弟子たちの他に、「従う者たち」とい
う別のグループがあったように読めます。写本の中には、「従う者
たちは恐れた」との記述が欠けているものもありますので、イエス
に従ったのは弟子たちだけだったと解釈する人も少なくありません。
しかし、テキストどおり、二つのグループがあった、と受け取る方
が自然です。イエスの弟子たちと違って、ただ後をついて行った人々
は、イエスと共感すること少なく、ただ恐れるばかりでした。しか
し、それでも彼らは、イエスの後をついて行くことにより、神の国
へ入る第一歩を踏み出しました。
(この項、続く)
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