2011年07月03日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第56回「マルコによる福音書10章17〜31
節」
(10/08/29)(その2)
(前号から続く)
ある人、原語は「一人の男」です。イエスのところへだれかが走
り寄るのは、9:15「霊に取りつかれた息子を持つ父親」を含む群衆
が駆け寄って以来です。ひざまずくのは、1:40、重い皮膚病の患者
さんがイエスに癒しを求めて以来です。この人も、イエスに助けて
ほしい、と切に求めてやって来たのでしょう。ところで、この人(男
性)について、マルコは「金持ちの青年」であるとか「役人」である
とか、一切述べていません。これらは、マタイ、ルカの似た物語で
の「脚色」です。マルコは、この男性の「ひたむきさ」にだけ注目
しています。
そして、この男性が求めたものは、前例と違って、悪霊の追い出
しでも、病気の癒しでもなく、「永遠の命を受け継ぐには何をすれ
ばよいのか」、つまり、ストレートに「神の国、神の支配に入れら
れたい」ということでした。このように「神の国、神の支配を求め
る人」にイエスが出会われたのは、初めてのことでした。そして、
「善い先生」という呼び方は、ユダヤ教の下では異例のものでした。
なぜなら、「善い」は、神のみに帰される属性でした。イエスは、
まずこの人のこの言葉に注目されました。
18節「イエスは言われた。なぜ、わたしを『善い』と言うのか。
神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」
このイエスの言葉を、「この男性の『お世辞』をたしなめられた
言葉」と受け取る人も多くいます。しかし、真面目な当時のユダヤ
教徒が、神の属性とわかりきっている「善い」という言葉を、軽々
しく使う、ということはないのではないでしょうか。この人は、
ひょっとすると、イエスに「神からのもの」を感じとり、あえて
「善い」という言葉をもってイエスに呼びかけたのではないでしょ
うか。だとすると、この呼びかけは、この男性の精一杯の信仰告白
であった可能性があるのです。
この男性の「信仰」がどのようなものであったかは、やがて明らか
になるのですが、神の国、神の支配に入れられるためには、どうし
たらいいのでしょうか。すでに明らかとされているように、十字架
を受け容れることが必要です。しかし、十字架そのものはこれから
のことです。イエスは、この人が十字架を受け入れられる人かどう
か、試すこととなりました。
19節「『「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取る
な、父母を敬え」という掟をあなたは知っているはずだ。』すると
彼は、『先生、そういうことは皆、子供の時から守ってきました』
と言った。」
旧約聖書、出エジプト記によれば、神は出エジプトの民と契約を
結ばれ、これからも民が神に従い続けるならば、神は民を守りの中
に置き続けることを約束されました。その民が神に従う証しが、十
戒を始めとする律法を守ることです。ここでイエスが引用されたの
は、十戒の第五戒から第十戒までと、第四戒です。第一戒から第三
戒までがないのは不思議ですが、律法のそれぞれの戒めを守ること
自体が、神を第一とするしるしであるはずです。そして、特に人間
関係の戒めを守ることは、小さな者を受け容れる愛につながるはず
です。イエスは特に人間関係の戒めについて、彼の姿勢を問いまし
た。それは、彼が十字架を受け容れる姿勢があるかどうか、問うた
めでした。
すると、彼の答えは、「そういうことはみな、子供の時から守っ
てきました」でした。「子供の時から」は、旧約聖書ではしばしば
用いられている表現で、「心から(守る)」の意です。だとすると、
この人は十字架を受け入れる用意のある人だ、ということになりま
す。ところが、です。
21節「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。『あなたに欠け
ているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい
人々に施しなさい。そうすれば天に宝を持つことになる。それから、
わたしに従いなさい。』」
もしも、人が本当に心から、十戒に忠実に従っていたとするなら
ば、その人は、当時のラビも教えていたように、体や、命や、富よ
りも神を愛すべきですし、神を愛していれば、当然、失われたアブ
ラハムの民であるところの、貧しい人々をも愛して、自分の富をそ
れらの人々のために用いたはずです。イエスが見抜かれたように、
この人がそれをしていなかったらしいことは、十戒を本気では守っ
ておらず、神を本当には愛していなかったということなのではない
でしょうか。
それにもかかわらず、イエスはこの人を糾弾されません。持って
いるものを売り払い、貧しい人々に施し、イエスに従いなさい、と
優しい眼差しをもって、 この人が永遠の命を得、神の国に入る、
つまり、十字架を受け容れるための道筋をお示しになられたのです。
ところが、
22節「その人は、この言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去っ
た。たくさん資産を持っていたからである。」
この人が、十字架を受け入れられなかった原因はどこにあるので
しょうか。それは、実は、富を持っていたことそのものにあるので
はなく、イエスの言葉に従い得なかったことにあるのではないでしょ
うか。
(この項、続く)
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