2011年06月26日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第55回「マルコによる福音書10章13〜16
節」
(10/08/22)(その3)
(前号から続く)
すると、何と、神の国はこのような者たち、子供たちのものだ、
子供たちに属している、とイエスは言われるのです。言い換えれば、
神の国は子供たちのところにもうすでに来ているのです。さらに、
別の言い方をすれば、まだ十字架前であるにもかかわらず、子供た
ちはすでに十字架を受け入れており、神の国、神の支配の喜びに与っ
ている、というわけです。弟子たちにとっては、ちんぷんかんぷん
のお言葉だったのではないでしょうか。
そこでイエスは、子供たちが、子供であるという理由だけで、な
ぜまだ見ても聞いてもいない十字架を受け入れたことになるのか、
その理由を明らかにされます。ところで、マルコにおいては、イエ
スが「はっきり言っておく」と言われる時は、神の言葉をそのまま
取り次がれる時です。ですから、これから言われることはそのまま
神の見解です。そして、イエスのお言葉は、「子供のように、神の
国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」
でした。つまり、子供たちの「受容性」のゆえ、子供たちはそのま
まで十字架を受け入れたことになる、それゆえ、子供たちは神の国
に入れる、ということでした。子供たちを来させたいがゆえに、そ
れを止めた弟子たちの行為に憤慨されたイエスの意図はここにあり
ました。
16節「そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」
こうして、マルコにおいては、この子供たちが、十字架を受け容
れ、信ずる者の第一号となりました。イエスが大いなる祝福をもっ
て迎えられたのも当然です。「抱き上げ、手を置いて祝福される」
という、丁寧な祝福をもって、イエスは子供たちの神の国への凱旋
を祝福されました。
しかし、私たちには、一つの疑問が残ります。人は皆、受容性豊
かな子供時代を過ごしますけれども、子供時代は長くは続きません
で、多くの者は大人になっていってしまいます。大人になれば、当
然受容性はどんどん失われていきます。十字架を受け容れる信仰も
どんどん失われていくのでしょうか。
実は、イエスは、この物語の中で、大人のための招きの言葉も与
えてくださっています。この物語に登場するのは、子供たちばかり
ではありません。その子供たちをイエスの許へ連れて来た大人たち
がいます。この者たちも、子供たちをイエスの許に連れてくるとい
う「行為」によって、十字架を受け容れたものと看做されるのでは
ないでしょうか。14節で、イエスが、「神の国はこのような者たち
のものである」とおっしゃっておられますけれども、神の国は、子
供たちと共に、子供たちをイエスの許に連れて来る大人たちのもの
でもあるのです。
子供たちと共に礼拝を守ることがいかに大切なことか、もう一度
受け止めて、これから新しい歩みを歩みましょう。
(この項、終わり)
第56回「マルコによる福音書10章17〜31節」
(10/08/29)(その1)
イエスの十字架がいよいよ近づいてきます。マルコによれば、イ
エスは公生涯においてただ一度、十字架に架かられるためにエルサ
レムに上られるのですが、その旅の途上、弟子たちを、十字架を証
する者となすべく、教育されるのです。テーマはすべて、神の国、
神の支配に関わることです。イエスは、この罪の世に、神の国、神
の支配は来た、と宣言されて宣教を開始されました。その神の国の、
神の支配の喜びの先取りとして、癒しをなされました。しかしなが
ら、この世に本当に神の国、神の支配は及ぶのでしょうか。イエス
はそれを、自らが十字架に架かって、人類の罪の贖いの死を遂げら
れることにより、完成されました。それゆえ、神の国、神の支配に
与る者とは、十字架を受け入れる者です。十字架を受け入れる者と
はだれでしょうか。それは子供です。ということがイエスの弟子た
ちへの教育の中心でした。とは言っても、ユダヤ教では、子供の特
性を「がむしゃらに奪い取ろうとする」ところに見ていますが、そ
れが十字架を受け容れる力なのではありません。子供の「依存的性
格」、すべてを受け容れる姿勢、それが十字架を受け容れることそ
のものだ、とイエスは言っておられます。そして、大人も、今子供
ではなかったとしても、子供を、小さな者を受け容れようとする姿
勢には、十字架を受け容れることに通じるものがあるとも言われて
きました。
が、本日の議論は一転、十字架を受け容れることのない者、神の
国、神の支配に入ることのない者はだれか、という議論となります。
それは、金持ちである、というのが結論です。しかし、なぜそうな
のか、本日のテキストを見てまいりましょう。イエスが旅に出よう
とされたとき、一人の男がイエスの前に現れました。
17節「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひ
ざまずいて尋ねた。『良い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をす
ればよいでしょうか。』」
ある人、原語は「一人の男」です。イエスのところへ誰かが走り
寄るのは、9:15以来です。
(この項、続く)
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