2011年06月19日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第55回「マルコによる福音書10章13〜16
節」
(10/08/22)(その2)
(前号から続く)
旧約聖書を知っているユダヤの民の一員である人々は、イエスの
祝福を受けようと思って、子供たちをイエスの許へ連れて来たので
はないでしょうか。尚、「人々」と言われているのですから、子供
たちを連れて来たのは親とは限りません。近所のおじさん、おばさ
んだったかも知れませんし、もし小学校高学年くらいの年齢の子供
であれば、友達同士誘い合わせて来たかも知れないのです。
13節後半「弟子たちはこの人々を叱った。」
だとすると、弟子たちがこの人々、たぶん子供を連れて来た人々
を叱ったのはなぜでしょうか。人々の病気を治してほしいが故の魔
術待望を叱った、という訳ではありません。ただ単にイエスを煩わ
せないため、そして同時に自分たちが煩わされないため、だったの
ではないでしょうか。弟子たちは、軽い気持ちからそうしたかも知
れません。しかし、それは結果的には、十字架の道を急がれるイエ
スに対して一定の配慮をすることとなったのです。
14節「しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。
『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。』」
しかし、弟子たちの、イエスに対して一定の配慮をした行動に、
イエスは意外な反応を示されました。イエスは「これ」、すなわち
そのやり取りの一部始終を見て、何と憤られたのです。この「憤る」
と訳されている語は、「大いに感情を動かされる」「憤慨する」と
いった意味の語で、マルコでは、ここと他の二箇所でしか、用いら
れていません。その一つは10:41、十二弟子の中の二人、ヤコブとヨ
ハネとが、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなた
の右に、もう一人を左に座らせてください、」すなわち、イエスが
この世の覇権を握られた時には、自分たちを、2、3にしてくだ
さい、と他の弟子たちに抜け駆けてお願いに行ったことを他の弟子
たちが知ったとき、他の弟子たちが「先を越された」と憤慨した、
その憤慨です。もう一つは14:4、イエスが重い皮膚病の人、シモン
の家で食事の席に着いておられたときのこと、一人の女が純粋で非
常に高価なナルドの香油の入った石膏の壷を持って来て、それを壊
し、香油をイエスの頭に注ぎかけたそのとき、そこにいた何人かの
人が、「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は300
デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」と
憤慨して言った、その憤慨です。どちらのケースも、それぞれの当
事者に、下心があったがゆえに、他者の行為に必要以上の憤りを覚
え、憤慨したケースと言えます。今回、憤られたのはイエスです。
イエスの場合、どのような下心(意図)があって、弟子たちの対応に、
そんなにまで憤られたのでしょうか。実は、マルコで「イエスが憤
られた」という記述はここだけです。あの、所謂「宮きよめ」にお
いてさえ、イエスは「憤られて」はおられません。弟子たちにとっ
てはなぞだったのではないでしょうか。
その上、イエスはその理由を説明されることなく、いきなり弟子
たちに命令されました。「子供たちをわたしのところに来させなさ
い。妨げてはならない。」この命令は、同じ内容を、肯定形と否定
形で繰り返されています。イエスは、よほど子供たちを来させたい
ようです。弟子たちの配慮にひどく憤慨され、その上、何としても
子供たちを来させよ、と命令されるイエスの下心、意図はどこにあ
るのでしょうか。その理由が14節後半から、おもむろに明らかにさ
れることとなりました。
14節後半〜15節「神の国はこのような者たちのものである。はっ
きり言っておく。子供のように、神の国を受け入れる人でなければ、
決してそこに入ることはできない。」
その理由とは、神の国、神の支配に関係していました。そもそも
イエスは神の国、神の支配の到来を告げるために宣教を開始されま
した。そして、その神の国、神の支配を完成させるために、十字架
にかかろうとしておられます。神の国、神の支配の喜びにすべての
人が与ってほしい、それがイエスの、そして父なる神の切なる願い
です。しかしながら、神の国、神の支配を受け入れることは、イエ
スの十字架を受け入れることであり、それはなかなか困難なことで
す。イエスから十字架を告知された弟子たちでさえ、まだなし得て
いません。その受容の困難さを、イエスは子供たちを受け入れる譬
えをもって語ってこられました。9:37では、「わたしの名のために
このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるので
ある」と、子供を受け入れる者がそのまま十字架を受け入れる者で
あることを明言されました。9:42以外では、小さな者を躓かせる者、
すなわち子供を受け入れることのない者が決して神の国にはいるこ
とがないこと、をおっしゃっておられます。子供を受け入れるかど
うかは、そのまま十字架を受け入れるかどうかを意味し、そして結
局、神の国に入れるかどうか、の試金石になる、とイエスはおっ
しゃってこられたのです。
が、今回は、これまでのように、大人が子供をどうやって受け入
れるか、ではなくて、子供たちにスポットが当てられます。子供た
ち自身はどうなのでしょう。
(この項、続く)
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