2011年06月12日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第54回「マルコによる福音書10章1〜12節」
(10/08/08)(その3)
(前号から続く)

 プロテスタント教会も、結婚が、神によって定められた、聖なる
永遠の関係である、とする点では、カトリック教会と立場は異なり
ません。しかし、人間の罪と過失とにより、この関係が壊れること
もある、ことも認めるのです。それゆえ、原因が明確な場合、離婚
を認めてきました。離婚そのものが罪なのではなく、そこには罪の
結果の痛みがある、と考えるのです。痛みには、大いなる慰めが用
意されているはずです。
 人間の現実を見据えたとき、イエスが5節で言われた「あなたた
ちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」という
お言葉は意味深です。「頑固な」と訳されている語は、協会訳では
「かたくなな」と訳されていました。旧約聖書のいくつかの用例、
申命記10:16、エレミヤ書4:4などを見ると、神に対して心を開いて
いない状態を指す語であることがわかります。イエスは原理原則を
振り回して裁かれるお方ではなく、罪に対して憐れみをもって臨ん
でおられるお方であることが、この一言をもってわかるのです。し
かし、物語にはまだ先があります。

 10-12節「家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋
ねた。イエスは言われた。『妻を離縁して他の女を妻にする者は、
妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫に
する者も、姦通の罪を犯すことになる。』」

 まず家はどこの家か、という問題があります。この物語の場所が
ユダヤ地方である、とすると、初めて行かれたこの地に、イエス一
行がこのようにアットホームになれる家があったのか、という疑問
にぶち当たることとなります。が、もしガリラヤでの出来事とする
と、家とはまずペトロの家でしょう。弟子たちは、そこでリラック
スしてイエスに率直に疑問を投げかけ、イエスも本音を、すなわち
十字架を踏まえての発言をされたのです。
 弟子たちが、このこと、たぶん9節でイエスが言われたことにつ
いてイエスにお尋ねしたところ、イエスは「妻を離縁して他の女を
妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯す。夫を離縁して他の男を
夫にする者も、同じである」と言われました。
 この言葉は、当時のユダヤ教の伝統の中で生きてきた弟子たちに
とっては、大いにショックだったのではないでしょうか。なぜなら、
妻を離縁して他の女を妻にする場合、それは理由のあることのはず
です。正当な手続きを経ていれば。何ら姦通の罪には当たりません。
逆の場合も同じです。
 が、イエスの言葉は実は次のような問いを意味しているのではな
いでしょうか。「法的には姦通の罪を犯してはいなくとも、神に合
わせられた二人として、本当に忠実であったか、あるか?」この問
いにだれが自信をもって「はい」と言えるでしょうか。 人が誠意
を尽くしあい続けるということは、決して簡単なことではありませ
ん。イエスはその困難さを重々承知の上で、そして、しばしば道を
踏み外してしまう人間の現実も踏まえて、人が、聖なる関係を保ち
続けていくためには、どうしても十字架の贖いの愛をいただくこと
が必要である、ということをおっしゃりたかったのです。この物語
が、いつ語られたにせよ、十字架直前に置かれている所以です。
 私たちの日々の歩みも、十字架の贖いの愛によって支えられて初
めて成り立つものであることを、覚えたいものです。

(この項、終わり)


第55回「マルコによる福音書10章13〜16節」
(10/08/22)(その1)

 13節前半「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連
れて来た。」

 イエスの十字架への道はいよいよ大詰めです。13節では「いつ、
どこで」ということが全く触れられていませんが、文脈からすると、
一行がユダヤ地方に入ってからの出来事と思われます。また、イエ
スが教えておられた時の出来事なのか、あるいは、通りすがりの出
来事なのかもわかりませんが、ここで十字架を前にしたイエスと子
供たちとの出会いがありました。どのような出会いだったのでしょ
うか。ここで「子供たち」と訳されている語の原語は「パイディオ
ン」という語です。この語は乳児を指す場合もあれば、12歳くらい
までの少年少女を指す場合もあります。ここでイエスに出会った子
どもは、「幼児」とは限りません。ストーリーを見てまいりましよ
う。
 イエスのところへ人々が子供たちを連れて来ました。触れていた
だくためでした。この「触れる」という語は、マルコでは1:4に最
初に用いられていますが、この時イエスは、重い皮膚病の患者を癒
すためにそうされました。また、別の機会に、イエスは明らかに触
診と見られる治療をなさいました(7:33、8:22)。一方病気を患った
人も、イエスに癒していただきたい、と願ってイエスにさわるよう
になりました(3:10、6:17)。中には魔術的な期待を込めて、イエス
に触れようとした人もいました(5:27、28)。しかし、ここでは、前
後関係から、イエスの許に連れて来られた子供たちが病気であった、
とは考えられません。それでは何のために? それは祝福を求めて、
なのではないでしょうか。旧約聖書では創世記48:14において、ヤ
コブがヨセフの二人の子どもの頭に手を置いて祝福しています。

(この項、続く)



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