2011年05月29日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第53回「マルコによる福音書9章38〜50節」
(10/08/01)(その3)
(前号から続く)

 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者」は、
37節で言われている「わたしの名のためにこのような子供の一人を
受け入れる者」の対です。37節で明らかなように、「わたしの名の
ためにこのような子供の一人を受け入れる者」とは、すなわち十字
架を受け入れる者のことです。それゆえ、「わたしを信じるこれら
の小さな者の一人をつまずかせる者」は、十字架を受け入れない者、
拒否する者のことです。こういう人、十字架を拒否する人は、神の
用意された命に与れない。石臼を付けられて海に投げ込まれてしま
うくらい、絶対に命に与れない。これが、基本原則です。
 第二に、応用として、一旦十字架を受け入れたとしても、十字架
の道からそれてしまったらどうなるか、ということです。ここで
「つまづく」と訳されている語は、原語で「スカダリゾー」と言い
ます。「スキャンダル」という語の語源です。が、「スカダリゾー」
は「わなにはまる」という意味の語です。ここで、手、足、目が、
わなにはまりやすい器官として描かれていることは、大変象徴的で
す。よく働く手、しっかりした足、よい目、これらは人に成功をも
たらしてくれます。しかし、その有能さのゆえに、しばしばわなに
はまるのです。自分自身の力に酔い、十字架を見失い、体全体を、
神の国、神の支配のもたらす命から遠ざけてしまうのです。
 どうしたらよいのでしょうか。切って捨てよ、えぐり出してしま
え、と命じられています。もっとも、実際には、手だけが、足だけ
が悪さをするわけではありませんから、それらを切り捨てても何の
意味もありません。が、徹底した、切断の痛みを伴った自己否定が
求められるということです。すべて、神の国、神の支配によって与
えられる命が与えられるためです。ここで命と訳されている語の原
語は「ゾーエー」です。これまた日本語では命と訳されますが、
「ビオス」という語からは区別されます。「ビオス」が生物として
の命のことを言うのに対し、「ゾーエー」は、神が与えたもう永遠
の命を意味します。この世の命は得ても、永遠の命を得られるかど
うか、が問われています。
 永遠の命を得られないとどうなるのでしょうか。地獄という訳は
よくありませんが、ゲヘナという所へ落ち込む、とイエスは言われ
ます。ゲヘナは実在の場所でした。エルサレムの西、ケデロンの谷
にあるヒンノムの谷をこう呼ぶのです。そこには、偶像礼拝者が火
でもって犠牲を献げたという歴史があります(列王記下16:3,21,6)。
それゆえ、ヨシヤ王によって徹底的に破壊されました。それ以後、
そこは、悪人の罰せられる所となりました。が、ゲヘナ行きは、決
して一部の人についてだけ言われることではないのではないでしょ
うか。そして、ゲヘナ行きにも救いはあります。

 49-50節「人は皆、火で塩味をつけられる。塩は良いものである。
だが、塩に塩味がなくなれば、あなたがたは何によって塩味をつけ
るのが。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過
ごしなさい。」

 火は、文脈から言うと、ゲヘナの火と考えられるのですが、その
火が人に塩味をつけるというのです。塩とは何でしょうか。本日の
旧約書、レビ記2:13と照らし合わせてみますと、旧約聖書の時代、
塩は、神と人との契約のしるしであったことが分かります。一方、
ゲヘナの火による苦しみとは、どのような苦しみなのでしょうか。
しかし、その苦しみが人に塩味をつけさせる、つまり、神との契約
を促す、つまり、十字架を本気で考えさせる、と言われます。手遅
れかも知れません。しかし、手遅れの者こそ、ゲヘナの火の熱さ、
痛みを感じ、「もう二度とこのような目に遭いたくはない」と感じ、
十字架により近づく、という逆転が起こるわけです。でも、今度こ
そ、塩味を失ってはなりません。いつも、文字通りの「地獄の苦し
み」を思い起こしつつ、十字架を求め続ける、これが、本当の平和
に向けての歩みの第一歩なのかも知れません。

(この項、終わり)


第54回「マルコによる福音書10章1〜12節」
(10/08/08)(その1)

 1節「イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こ
う側へ行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつ
ものように教えておられた。」

 さらに、イエスの十字架への道行きは先へ進みます。イエスは、
初めてユダヤ地方へ入られました。しかし、イエスは同時にヨルダ
ン川の向こう側へ行かれることもお忘れにはなられませんでした。
ヨルダン川の向こう側はペレア地方と言い、異邦です。しかし、当
時そこはガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの領土となっており、
極めてよくユダヤ教化された地域であったと言われています。とは
言え、異邦であることに変わりはなく、イエスの宣教活動が、いつ
も異邦を視野に入れたものであったことを示しています。
 が、イエスが、もうその時が終わったと判断されたはずの宣教活
動を、「再びいつものように」なされたというのは大変不思議なこ
とです。しかし、イエスがこの地方に来られるのは初めてですから、
「宣教の使命」を完うしようとされたのかも知れません。

(この項、続く)



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