2011年05月22日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第53回「マルコによる福音書9章38〜50節」
(10/08/01)(その2)
(前号から続く)

 しかし、その発言は決してイエスに喜ばれるものではありません
でした。しかし、神の国、神の支配の完成としての十字架へ向かわ
れるイエスは、弟子の教育のために、ヨハネのために、そしてヨハ
ネを中に持つ私たちのために、ヨハネの問いをきっかけとして、弟
子たちを教育されます。
 ヨハネはこう言いました。「先生、お名前を使って悪霊を追い出
している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせよ
うとしました。」すでに、三人以外の弟子たちによっても実行され
ていたように、神の国の新しい十二部族の教会に仕える十二弟子に
与えられた使命は、悪霊を追い出し、病人を癒すことによって、神
の支配の到来を告げることでした(6:12)。ヨハネもそのように仕え
てきたのでしょう。そうしたら、何と、イエスの名前を使って悪霊
を追い出している者が他にもいた、という訳です。「あいや、イエ
スの名に関しては、自分たち、弟子たちこそ本家本元、自分たちの
許可なくその名を用いること、まかりならぬ」という訳で、とりあ
えずやめさせようとしたのですが、先生、どうご判断されます?と
いう問いです。
 しかし、問題は、ヨハネが本気でこの問いを発したかどうか、で
す。大方の註解書では、ヨハネの問いが本気であった、と受け止め
ています。だとすると、単純に、ヨハネの「偏狭なセクト主義」に
対して、イエスは寛容を説かれた、ということになります。
 しかし、ヨハネがイエスを「先生」と読んだときの「先生」が、
「ラビ」ではなくて「ディダスカレ」であるところを見ると、あく
までも可能性ですが、ヨハネがイエスを試した可能性もあるのでは
ないでしょうか。なぜなら、当時のユダヤ教の有名なラビの言葉に、
「不賛成の者が急に好意を示すことはない。賛成の者が急に悪意を
示すこともない」という言葉があるからです。もしも、この言葉を
ヨハネが知っていたとしたら、ヨハネの質問の本当の意味はこうな
ります。「自分は、自分たちのグループに属さない者を排除してき
ましたが、その点については、有名なラビも賛同しています。先生、
どうなのですか」ということになります。ファリサイ派の主張を絡
ませた問いである可能性があるのです。
 イエスは、このヨハネの難しい問いにどう答えられたでしょうか。
「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのす
ぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、
私たちの味方である。」徹底して寛容を貫き通されるのです。すな
わち、イエス及び弟子たちに対する「好意」は、たとえそれがイエ
スに敵対するグループのものであったとしても、神にはよく受け止
められる、ということです。なぜでしょうか。

 41節「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あ
なたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

 イエスはここで、ご自分の弟子のことを「わたしの弟子」と呼ば
ずに、「キリストの弟子」と呼んでおられます。が、この時点では、
イエスはキリストとは呼ばれていません。しかし、十字架による救
いのみ業が成就した時には、イエスは、イエスグループの長として
祀り上げられるのではなく、キリストとして、神のみ業を成就なさっ
た方として君臨なさるのです。弟子たちは、今は「イエスの弟子」
ですが、やがて「キリストの弟子」となるべき一人一人です。十字
架は、まだ告知がなされたばかりで、イエスの弟子たちでさえ、何
のことか分かっていません。しかし、十字架をもって、神の国、神
の支配は完成されるのです。たとえ気づかない状態であったとして
も、今イエスの弟子とは敵対グループに在ったとしても、将来、キ
リストの弟子となる者にとにもかくにも示した好意、それは十字架
を受け入れたに等しく、神の喜ばれることとなるのです。神のみ業
は、セクト主義を超えて実現するのです。
 しかし、逆に、今イエスグループに属していたとしても、人がキ
リストの弟子となることを、救いに至ることを妨げているとしたら、
その人は「キリストの弟子」とは言えないことが、厳しく警告され
ます。

 42-48節「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる
者は、大きな石臼を首にかけられて、海に投げ込まれてしまう方が
はるかによい。もし、片方の手があなたをつまずかせるなら、切り
捨ててしまいなさい。両手がそろったまま、地獄の消えない火の中
に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方
の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足
がそろったままで、地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命
にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、
えぐりだしなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよ
りは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽
きることも、火が消えることもない。」

 二つのことが言われています。第一は、基本原則です。「わたし
を信じる小さな者の一人をつまずかせる者」については、ただ単に
その行いが問われているだけではありません。

(この項、続く)



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