2011年05月01日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第51回「マルコによる福音書9章14〜29節」
(10/07/18)(その3)
(前号より続く)
19「イエスはお答えになった。『なんと信仰のない時代なのか。
いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あな
たがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに
連れて来なさい。』」
ここも、原文は「イエスは彼らにお答えになった」です。彼らと
は、一体だれのことでしょうか。文章のつながりから見ると、この
父親に答えたようにも受け取れます。しかし、これは明らかに律法
学者たちに向けられた答えです。なぜなら、イエスはすでにダルマ
ヌタ地方において、ファリサイ派の人々に全く同じ内容の言葉を向
けられているからです(7:11以下)。ダルマヌタ地方において、ファ
リサイ派は、信じてもいないのに、イエスをひっかけるために、天
からのしるしを求めました。このような冒瀆に対して、イエスは
「どうして、今の時代の者たちはしるしを求めるのだろう」と嘆い
ておられます。ここでも同じことが起こっています。弟子たちの無
能さを出汁に、イエスの業そのものが否定されようとしているので
す。「信仰のない時代」という表現は、イエスが、申命記32:5で、
「不正を好む曲がった時代」と言われている時代を意識して言われ
た言葉ではないでしょうか。当時の人々にはそれがわかったはずで
す。モーセが臨終を前に、イスラエルに、不信仰にして神に背く時
代が来ることを預言した、その時代が今来た、ということです。し
かし、この時代をもたらした、あなたがた、律法学者たちは決して
赦されない、イエスはそのような固いご決意をお示しになられたの
ではないでしょうか。
しかし、今ダイモニオンに取りつかれている子どもは何とかせね
ばなりません。悪霊祓いが必要です。しかし、イエスには、悪霊祓
いの前に確認しなければならないことがありました。
20-24節「人々は息子をイエスのところに連れてきた。霊は、イエ
スを見ると、すぐにその子をひき付けさせた。その子は地面に倒れ、
転び回って泡を吹いた。イエスが父親に、『このようになったのは、
いつごろからか』とお尋ねになった。父親は言った。『幼い時から
です。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ
込みました、おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けくだ
さい。』イエスは言われた。『「できれば」と言うか。信じる者に
は何でもできる。』その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信
仰のないわたしをお助けください。』」
ここで初めて、父と子がイエスの前に出ました。父親はイエスに
「おできになるなら、わたしどもを憐れんで、お助けください」と
言いました。不信仰の時代、人々は悪い宗教家の影響を受け、不信
仰には至らずとも、中途半端な信仰に陥ってしまいます。この父親
もそうでした。一方、もうすでに十字架を示されたイエスは、十字
架への信仰、十字架への信仰告白を求められます。このギャップを
どうやって埋めるか? この父親は、「わたしの」不信仰に気づいた
時、その悔い改めをもって、十字架の救いに至る者となったのです。
25-27節「イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊
にお叱りになった。『ものも言わせず、耳も聞えさせない霊、わた
しの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。』
すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。そ
の子は死んだようになったので、多くの者が、『死んでしまった』
と言った。しかし、イエスか手をとって起こされると、立ち上がっ
た。」
悪霊祓いそのものについては、今までに行われてきた悪霊祓いと
本質的には変わりません(1章及び5章)。しかし、十字架のイエスに
よってなされた悪霊祓いには、新しい命を生み出す力があります。
それが「死んだようになった子どもが、立ち上がった」という表現
に表れています。十字架のイエスによる悪霊祓いには、単なる原状
回復に止まらない、新しい命の創造があるのです。
さて、騒動のそもそもの元である弟子たちには、何が求められる
のでしょうか。
28-29節「イエスが家に中に入られると、弟子たちはひそかに、
『なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか』と
尋ねた。イエスは『この種のものは、祈りによらなければ決して追
い出すことはできないのだ』と言われた。」
弟子たちとしては、せっかく奉仕したのに、という思いがあった
かも知れません。しかし、自力による奉仕には限界があります。祈
りによって、十字架こそ、神の国完成の恵みであることを受け止め
るとき新たな道が開けてくる、ということを、イエスはお伝えにな
られたかったのではないでしょうか。
(この項、終わり)
第52回「マルコによる福音書9章30〜37節」
(10/07/25)(その1)
十字架の告知の後、イエスは、この時代を「不信仰の時代」と捉え
られ、その不信仰を、十字架への信仰をもって乗り越えるべきこと
をお示しになられました。すなわち、不信仰は「みんなで心を改め
て、信仰に精進しましょう」といったスローガンでは乗り越えられ
ないのです。神の御子がこの世に降り、十字架という形で神の愛を
お示しくださることにより、初めて不信仰は解消されるのです。
(この項、続く)
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