2011年04月24日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第51回「マルコによる福音書9章14〜29節」
(10/07/18)(その2)
(前号より続く)
しかし、現実には、その働きがうまくいかないこともあったこと
が、ここで初めて明らかとなります。
イエスが山を下りて来られた後のことですので、ペトロ、ヤコブ、
ヨハネの三人も伴っておられたことと思われますが、他の弟子たち
が活動しているところへ来てみると、彼らは大群衆に囲まれて、し
かも律法学者たちと議論していました。異常事態です。
弟子たちが活動していた場所、それはガリラヤ地方のどこかであ
ったのではないか、と思われます。弟子たちはイエスに伴ってフィ
リポ。カイサリア地方にまで行き、そこで、イエスの十字架の予告、
「受難予告」を聞きました。その後、そこで、山へ向かう四人を送
り出したはずです。残った弟子たちが、その地に残って活動したと
考えられなくもありませんが、実際の教会成立前のこの時期におい
ては、弟子たちにとって異邦人伝道はまだ荷が重い話です。それに
異邦の地では律法学者が登場することもないでしょう。残った弟子
たちは、数日、あるいは、もっと道を先に行き、ガリラヤ地方のい
ずこかで活動していたのではないでしょうか。
しかし、かつて知ったるガリラヤ地方ではあっても、活動はうま
くいかなかったようです。律法学者たちに言いがかりをつけられる
こととなってしまいました。ここで「議論する」と訳されている語、
マルコでは六回も用いられており、頻出語です。多くの場合には、
「真面目な」議論を指します(9:10など)。しかし、議論にファリサ
イ派やその律法学者たちが絡むとよくありません。人を引っ掛ける、
貶めるための議論となりがちです(8:11)。ここでも、弟子たちが律
法学者たちに言いがかりをつけられていました。
弟子たちを取り囲んでいた群衆も、律法学者たちの議論を聞きな
がら、弟子たちに対して疑心暗鬼になっていたのではないでしょう
か。しかし、イエスの突然の出現に驚き、駆け寄ってきて挨拶をし
たところを見ると、イエスに対する尊敬の念は持ち合わせていたよ
うに見えます。しかし、この挨拶という語が意味深です。マルコで
は、この語はもう一度だけ用いられています。15:18ですが、囚人と
なったイエスが、紫の服を着せられ、茨の冠をかぶらされ、そして
「ユダヤ人の王、万歳」と言ってあざけられ、侮辱の敬礼、挨拶を
兵士たちから受けた、と記されています。その「敬礼」と訳されて
いる語が、ここでの「挨拶」と訳されている語と同じ語なのです。
ここでの「挨拶」も心からのものではなかったのではないでしょう
か。
異常を感じとられたイエスが「何を議論しているのか?」とお尋ね
になられました。が、この問いに対する答えも異常でした。原文で
は「彼らにお尋ねになった」と、「彼ら」という語が入っています。
この「彼ら」はだれでしょうか。普通でしたら、議論している当事
者の弟子たちか、せいぜい律法学者たちでしょう。しかし、この両
者は、イエスの質問が耳に入らないくらい口角泡を飛ばして議論し
ていたのでしょうか。何と、群衆の一人がイエスの問いに答えまし
た。そして、この人は、議論のきっかけをつくった当事者でもあり
ました。この人によれば、その息子は霊、ダイモニオンに取りつか
れていました。「この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。」
と訳されていますが、原文は「ものを言えなくする霊に取りつかれ
て」、です。かなりたちの悪いダイモニオンだったのではないでしょ
うか。一旦取りつくと、その人を所かまわず地面に引き倒し、泡を
吹かせ、歯ぎしりさせ、体をこわばらせ、ないしは蒼白にさせてし
まう(とも訳せます)のです。そこで、イエスの弟子たちに悪霊祓い
を頼んだのですができなかった、それが議論の原因だ、という訳で
す。
ところで、この人、ダイモニオンに取りつかれた子の父親の言葉
には、非難の思いも込められていました。「先生」という呼びかけ
にそれが表れています。日本語に訳すと、同じ「先生」になってし
まうのですが、マルコは「ラビ」というヘブライ語の呼び方と、
「ディダスカレ」というギリシア語での呼び方とを区別して用いて
います。「ラビ」と記されているときは、呼ぶ人が呼んだ人を本当
に尊敬している場合です。9:5もそうです。「ディダスカレ」と記さ
れているときは、非難の意味が込められていることが多いのです。
たとえば、4:38、嵐の船の上で、弟子たちが、弟子たちに構わず居
眠りしておられるイエスに対して呼びかけた呼びかけが、非難の思
いを込めた呼びかけが「ディダスカレ」でした。ここで、この父親
がイエスを読んだ呼びかけは「ディダスカレ」と記されています。
非難の思いが込められていたのではないでしょうか。
こうして、弟子たちの「無能さ」に対する律法学者の揚げ足取り
の議論、そしてその律法学者に同調するかのような群衆の態度、さ
らに父親の非難、このような四面楚歌の中にイエスは置かれていた
のでした。どのように対応されるのでしょうか。
(次号へ続く)
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