2011年04月17日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第50回「マルコによる福音書9章9〜13節」
(10/07/11)(その3)
(前号より続く)
しかしマラキ書は、終末の時エリヤが遣わされることを告げるだ
けで終わってはいません。エリヤが遣わされるのは、「父の心を子
に、子の心を父に向けさせる」ため、「わたし(神)が来て、破滅を
もって、この地を撃つことがないように」するため(24節)です。つ
まり、神の怒りを和らげるためなのです。それでは、神の怒りを和
らげるためにエリヤは何をするのでしょうか。ここから、律法学者
の議論が始まります。律法学者によって、エリヤの働きは、神に対
して民の罪をとりなすこと、つまり、エリヤは終末の大祭司の役割
を担う、イスラエルの十二部族の回復者とされたのです。この律法
学者説に従えば、終末のエリヤの働きによって、神の国、神の支配
はほぼ完成してしまうのではないでしょうか。イエスの十字架は必
要なくなってしまうのではないでしょうか。三人はどこまで分かっ
ていたかは不明ですが、この問題を察知して、十字架とエリヤとの
関係を聞きたくて、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだ
と言っているのでしょうか」と尋ねたのではないでしょうか。この
「なぜ」には12節の「なぜ」とは違う語が用いられています。「と
言われていますが、どうでしょうか」とのニュアンスです。
しかし、イエスのお答えは、律法学者の「甘い」考えを一蹴する
ものでした。
12-13節「イエスは言われた。『確かに、まずエリヤが来て。すべ
てを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受
けると聖書に書いてあるのはなぜか。しかし、言っておく。エリヤ
は来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなよう
にあしらったのである。』」
確かに、聖書(マラキ書)に書かれているように、エリヤが来て、
主の日に備えるため復元することになっています。動詞が現在形で
すので、一般論です。しかし、一方で、世を裁くために来るはずの
人の子が苦しみと辱めとを受けるということも、すでに旧約聖書で
預言されているのはなぜでしょうか。そこには、罪の現実と、十字
架の必然性があります。
実際苦難の預言どおりでした。終末のエリヤはすでに来ました。
バプテスマのヨハネがその人です。しかし、人々は、彼の言葉を聞
いて悔い改めるどころか、耳を貸さず、ヨハネ自身も惨殺されてし
まいました。イエスにも同じ運命が予見されます。
マルコは、善人が招かれて神の国、神の支配へ入れられる、とい
う楽観論に立っていません。たとえ神はそう願っておられたとして
も、人間の罪が神のご計画をめちゃめちゃに破壊します。イエスを
十字架につけてしまいます。しかし、そのイエスの十字架に、神の
国、神の支配の完成、勝利があるのです。この十字架に与ることに
より、弟子たちは、そして私たちは、神の国、神の支配の完成、勝
利があるのです。この十字架に与ることによって、弟子たちは、そ
して私たちは、神の国、神の支配に招きいれられ、神の国の教会建
設の働きに召されて行くのです。
(この項、終わり)
第51回「マルコによる福音書9章14〜29節」
(10/07/18)(その1)
神の国、神の支配の完成としての十字架を弟子たちに、とりわけ
その代表であるペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人に示されたイエスは、
これから、十字架への道をまっしぐらに進まれます。
今、イエスは、ヘルモン山を下りて来られたところですから、十
字架の地、エルサレムへ行くためには、一旦ガリラヤへ出、それか
らユダヤ地方へ向かわねばなりません。その途上には、神の国、神
の支配の始まりを伝え聞いてはいても、イエスから直接聞いていな
い人たちもいます。その人々には神の国、神の支配の到来を告げ知
らさねばなりません。しかし、そのような宣教活動は必要最小限に
絞られて、イエスは弟子たちの教育に重点を置かれることとなりま
した。なぜなら、イエスの十字架によって、神の国、神の支配が完
成したとしても、それをきちんと受け継ぐ者がいなくては、神の国
の教会、神の国の新しい十二部族の教会の完成はおぼつかないから
です。
しかし、弟子たちの実態は、というと、それが実に覚束ないもの
なのです。
14-18節「一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは
大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。群衆は
皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄ってきて挨拶した。イエ
スが『何を議論しているのか』とお尋ねになると、群衆の中のある
者が答えた。『先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は
例に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、
所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出
し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出し
てくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。』」
イエスのご栄光のお姿に接し、イエスの十字架へと向かう、並々
ならぬ決意を聞いたペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人ばかりではなく、
他の弟子たちも、神の国、神の国の教会の成立のために仕える自分
たちの使命を自覚はしていたことでしょう。
しかし、
(次号に続く)
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