2011年04月10日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第50回「マルコによる福音書9章9〜13節」
(10/07/11)(その2)
(前号より続く)

 その場にいなかった弟子たちはもちろんのこと、立ち会った三人
についても、十字架がまだ現実のものとなっていないこの時点にお
いて、自分たちの使命が分かったかどうか、分かっているかどうか、
怪しいものです。そこで、山を下るとき、途中で、イエスと三人と
の間で、弟子たちの使命をめぐって議論がなされることとなりまし
た。

 9節「一同が山を下りるとき、イエスは『人の子が死者の中から復
活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない』と弟子た
ちに命じられた。」

 最初に、イエスが「人の子が死者の中から復活するまでは、今見
たことをだれにも話してはいけない」と命じられました。イエスは
かつて、イエスが「神の子」であることを言うことを禁止されまし
た(1:24など)。同じことが三人にも要求、命令されます。神の国、
神の支配の完成までは、神のみ業が十分には理解されないからです。
しかし、今回初めて、その禁止の期間が明らかにされました。「人
の子が死者の中から復活する時まで」です。
 しかし、期限が神の国、神の支配の完成の時という意味であるな
らば、なぜそれは十字架の時ではないのでしょうか。十字架の時こ
そ、神の国、神の支配の完成の時であるはずです。が、それは、十
字架が、十字架だけでは、政治的メシアの失敗の時とも受け取られ
かねないからです。すでにイエスの前にも、何百、何千という人が
十字架に架けられました。イエスと一緒に十字架に架けられた人も
いました。皆、失敗した政治的メシアです。イエスご自身も、ロー
マの官憲から見れば、失敗した政治的メシアであったがゆえに、十
字架刑に処せられたのです。イエスの十字架が、その見かけの悲惨
さ、惨めさにもかかわらず、神の国、神の支配の完成の勝利の十字
架であったことが本当に明らかになるのは、イエスの復活の時です。
十字架に架けられた、普通の政治的メシアは復活しません。イエス
だけが死者の中から復活して栄光を顕されました。復活のイエスか
ら逆に、イエスの十字架が、イエスの十字架だけが、神の国、神の
支配の完成の十字架であったことが明らかとなるのです。ゆえに、
イエスの復活の時までは真実は知らされないし、先に真実を知った
者も黙っていなければならない、ということなのです。
 しかし、「死者の中からの復活」とりわけ「人の子の死者の中か
らの復活」というイエスの言葉が、三人の弟子たちにあるイメージ
を引き起こすこととなりました。

 10節「彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとは
どういうことか、と論じあった。」

 ここで、「言葉」と訳されている語の原語は「ロゴス」です。ロ
ゴスは、言葉は言葉でも、重い真実をその中に秘めた言葉という意
味です。三人はイエスの言葉を非常に重く受け止めました。なぜで
しょうか。それは、三人が、イエスの言葉を、イエスが終末につい
て、終わりの日について触れられた、と受け止めたからです。三人
とも当時のユダヤ人です。当時、「人の子」と言えば、終末の時天
から下って来られて、神の代理として、審判、最後の審判をなさる
お方のことでした。また、死者の復活と言えば、やはり終末の時に
起こる出来事、と考えられていました(エゼキエル書37章)。その当
時のユダヤ教の一派、エッセネ派においては、終末の時、共同体の
全員がよみがえることが期待されていました。イエスの口から、
「人の子」、死者の復活、といった、重いキーワード(ロゴス)を受
け止めた三人は、ロゴスに激しく反応し、「人の子が死者の中から
復活するとは、終末が来るのだろうか。この世が終わるのだろうか。
間もなくなのだろうか」と切羽詰まった出来事として、喧々諤々と
論じ合ったということです。決して、悠長な議論をしていた訳では
ありません。ある有力な写本には、「死者の中から復活する時、と
はどういう時か」と訳されていますが、この方が、弟子たちの議論
の内容をより正確に表現しているかも知れません。
 さて、終末と言えば、山上の変貌でもそうであったように、エリ
ヤの登場が伝えられています。弟子たちの関心は、エリヤに向けら
れます。

 11節「そして、イエスに『なぜ、律法学者は、まずエリヤが来る
はずだと言っているのでしょうか』と尋ねた。」

 エリヤはそもそも北王国、アハズ王の時代に活躍した預言者でし
た。が、その生涯の終わりに、「天にあげられた(列王記下2:11)」
とされているために、天において「不死」で、多くの役割を与えら
れた、とイスラエル・ユダヤでは考えられて来ました。たとえば、
「彼は天において書記官(→「律法学者」)となり、人の記憶をすべ
て一冊の本の中に書き込んでいるのだ」という言い伝えもあります。
が、天にあげられたエリヤに与えられた最も大きな役割は、マラキ
書3:23に預言されている役割です。やがて、「主の日」と呼ばれる
終わりの日が来ます。その日、神は使者(「人の子」)を遣わし、世
を裁かれます。その裁きによって、高慢な者、悪を行う者はすべて
わらのように焼き払われます。そして、神を敬う者には、義の太陽
が昇ります(マラキ書3:19-20)が、その裁きの前に神は預言者エリヤ
を遣わされるのです。

(続く)


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