2011年03月20日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第48回「マルコによる福音書8章27〜38節」
(10/06/27)(その3)
(前号より続く)

 弟子たちはどうでしょうか。イエスが「あなたがたは、わたしを
何者だと言うのか」とお尋ねになられたところ、ペトロが「メシア」
と答えました。当時の文脈から言えば、メシアとは当然「政治的メ
シア」です。弟子たちはイエスを政治的メシアと捉えていたのです。
が、このことは、弟子たちは、イエスを十字架に近いところで捉え
ていた、ということでもあります。

 31〜32節「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、
長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復
活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、
そのことをはっきりとお話になった。すると、ペトロはイエスをわ
きへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを
見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あな
たは神のことを思わず、人間のことを思っている。』」

 イエスをメシアと告白したということは、弟子たちが、「十字架
の可能性」をも受け止めたということになります。しかし、イエス
は、イエスの十字架が、失敗の十字架ではなくて、勝利の十字架で
あることを伝えねばなりません。まず、イエスは、十字架がご自分
の運命であることを告げられます。31節の「ことになっている」と
ギリシア語のその表現を表しています。しかし、十字架にかかられ
るお方は、政治的メシアではなくて、終末の勝利の君であられる
「人の子」です。たしかに、「人の子」は長老、祭司長、律法学者
たちに殺されます。しかし、それはユダヤ人に代表される罪を贖う
ためです。それゆえ、十字架は復活と勝利に終わるのです。神の国
の完成に参加する弟子たちにはここまで分かってほしい、それゆえ
イエスは、はっきりと語られたのです。
 しかし、言葉で聞いても、十字架を政治的メシアの失敗としてし
か受け止められないペトロを始めとする弟子たちは、イエスに「そ
んなに最悪の事態をお考えにならなくても、せいぜい失敗しないよ
うに頑張ってください」と諭すしかありませんでした。本人は親切
心のつもりだったかもしれませんが、神のみ業を止めようとしたペ
トロは、結果的には、サタンの手先となってしまったのです。
 それでは、イエスの勝利の十字架を受け止める者は、どのように
生きたらよいのでしょうか。

 34節〜「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。
『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負っ
てわたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失
うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救う
のである。人はたとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、
何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払え
ようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥
じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に
来る時に、その者を恥じる。』」

 イエスの十字架を受け止める者は、失敗のしるしとしての十字架
ではなく、勝利のしるしとしての十字架を受け止める者です。その
者は、進んで自分の十字架を負います。自分の十字架を負うとはど
ういうことでしょうか。わざわざ失敗をしに行くことでしょうか。
そうではありません。自分の十字架を負う、とは、当時の文脈から
言うと、イサクのように行動することを意味しました。イサクは、
自分が贖いの供え物になることになっているにもかかわらず、その
ための薪を背負いました。そのイサクを、神は慰めをもって救われ
ました。イサクは、結局は勝利を得たのです。
 キリストによる勝利を信じ、神の命令であれば、あえて苦難に向
かって歩む。そこに、イエスに従う歩みの壮絶さ、厳しさと同時に
慰めもあるのではないでしょうか。

(この項、終わり)


〔マルコによる福音書講解説教〕
第49回「マルコによる福音書9章1〜8節」
(10/07/04)(その1)

 前回のところで、イエスは弟子たち、十二人に十字架をお示しに
なられました。しかもそれは、政治的メシアの失敗としての十字架
ではなく、神の支配の完成、勝利としての十字架です。もちろん、
弟子たちは、ペトロの言葉に見られるごとく、まだ政治的メシアの
失敗としての十字架しかイメージできません。しかしそれでも、イ
エスは、弟子たちが必ず、神の国の完成としての十字架を見ること
を保証されます。

 1節「また、イエスは言われた。『はっきり言っておく。ここに一
緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、
決して死なない者がいる。』」

 「ここに一緒にいる者」とは、群衆と弟子たちです(8:34)。イエ
スは、五千人の供食に見られるごとく、神の国の食事にすべての人
を招いておられます。しかし、特に、神の国の教会のリーダーとし
て選ばれた十二人には、神の国、神の支配の完成を見させてあげね
ばなりません。イエスは、十二人に、「神の国が力にあふれて現れ
る」のを、すなわち勝利の十字架を見ることを保証されました。

(この項、続く)


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