2011年03月13日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第48回「マルコによる福音書8章27〜38節」
(10/06/27)(その2)
(前号より続く)

 もちろん、イエスが行かれていない地域はまだまだあります。が、
そこでの宣教は使徒たちに委ねられるとして、イエスは次へ進まれ
ます。神の国、神の支配の完成のための、十字架への道です。十字
架への道を歩み始められるにあたり、このことはまず、十二人の弟
子たちに告げ知らされねばなりません。なぜなら、彼らは将来の神
の国の十二部族のリーダーになるべき人だからです。それで、イエ
スは「弟子たち」と出かけられたのです。
 しかし、イエスは、弟子たちに十字架を告げ知らせるのに、なぜ
フィリポ・カイサリアの地を選ばれたのでしょうか。まず、フィリ
ポ・カイサリアという町そのものについてですが、この町は、ベト
サイダの北、25マイル(40km)の地点にあります。ヨルダン川の水
源の一つである泉が湧き出している洞穴が近くにあり、洞穴(パネ
イオン)を語源とするパネア(なまってバニアス)が、この地の本来の
名です。が、この町とユダヤとの関係は微妙でした。この町が文献
に初めて登場するのは、198B.C.のことですが、その後はローマの支
配下に入り、ティルス地方に属しました。ということは、ユダヤに
とっては異邦の地であった、ということです。洞穴には、異教の神
が祀られていました。が、ヘロデ大王の時、この地方はユダヤ王国
に組み込まれました。その支配は、ヘロデの子の一人、ヘロデ・フィ
リポに受け継がれ、彼によって、フィリポ・カイサリアと命名され
たのです。よって、この地は、政治的にはユダヤであるが、中身は
異邦であるという微妙な位置に属しています。
 フィリポ・カイサリアがそのような町であることを十分にご承知
であられたはずのイエスが、十字架を告げられる地として、この地
を選ばれたのはなぜでしょうか。この地を選ばれたこと自体に、す
でにあるメッセージがこめられていたのではないでしょうか。それ
は、十字架がユダヤ人のためのものであると同時に、異邦人のため
のものである、ということです。そもそも異邦人の地で十字架が告
げられたということの中に、十字架はすべての人の罪の贖いのため
のものであることが明らかとされています。また、この地がユダヤ
人の支配の下にあるということのゆえに、十字架が旧約聖書の成就
であり、なおかつそれを乗り越えるものであることが明らかとされ
ています。さらにそこがヘロデ家の支配の下にあったということは、
イエスの打ち立てられる神の支配が、ヘロデ家に代表される地の支
配に打ち勝つものであることを表しています。十字架告白が、この
地でなされたことには、大きな意味があるということです。
 さて、それでは、十字架告白はどのようにして弟子たちになされ
たのでしょうか。

 27節後半〜30節「その途中、弟子たちに『人々は、わたしのこと
を何者だと言っているか』と言われた。弟子たちは言った。『「洗
礼者ヨハネだ」と言っています。ほかに「エリヤだ」という人も、
「預言者の一人だ」と言う人もいます。』そこでイエスがお尋ねに
なった。『それでは、わたしを何者だと言うのか。』ペトロが答え
た。『あなたはメシアです。』するとイエスは、御自分のことをだ
れにもはなさないようにと弟子たちを戒められた。」

 十字架のことを弟子たちに告げ知らせるためには、イエスが「ど
なた」として十字架に架かろうとしておられるのか、それも明らか
にされねばなりません。なぜなら、イエスの時代、数え切れないく
らいの「政治的メシア」が十字架に架けられていたからです。
 日本語で「メシア」といわれている語は、英語では「メサイア」、
ヘブライ語では「マーシーアッハ」と言います。「マーシーアッハ」
とは、油注がれた者の意で、神から特別の使命に召された者のこと
を言います。多くは王ですが、祭司や領主、時には民全体、ある場
合にはキュロス王(バビロン捕囚を終結させた、ペルシアの王)につ
いてもメシアと呼ばれました。そのうち、「理想の王」について言
われるようになりました(詩編2:2)。そして、ギリシア・ローマの支
配に人々が苦しんだ時代、人々は、神がメシアを遣わしてくださっ
て、自分たちをギリシア・ローマの支配から解放してくれることを
求めました。これが「政治的メシア」です。イエスの時代、メシア
と言えば、「政治的メシア」でした。そして、多くの「自称メシア」
が輩出し、ローマに反逆し、そしてあえなく失敗して、ローマに捕
えられ、皆十字架刑に処せられました。十字架刑は、ローマ帝国に
おいて、反逆罪の罪に問われた者に対する刑罰だったからです。
 十字架とは、イエスにとっては、神の国の完成、罪の贖いの勝利
のためのものでした。しかし、一般には「政治的メシア」が反逆に
失敗して架けられるものでした。神の国、神の支配の完成を共に担
うはずの十二人ですが、彼らにとっても、十字架は「政治的メシア」
の失敗を意味していたはずです。
 さて、一般の人たちのイエスの捉え方はどうでしょうか。それは、
預言者ということで、政治的メシアまでにも及びません。イエスを
尊敬していたとしても、十字架は想定外です。

(この項、続く)


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