2011年03月06日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第47回「マルコによる福音書8章22〜26節」
(10/06/20)(その3)
(前号より続く)

 異邦人がイエスをすぐに受け入れたことは、マルコ7章で明らかで
す。ユダヤ人の場合はどうだったのでしょうか。
 実は、24節の「人が見えます。木のようですが、歩いているのが
わかります。」と新共同訳聖書で訳されている部分は、翻訳が難し
いところです。ちなみに、協会訳聖書では「人が見えます。木のよ
うに見えますが、歩いているようです。」と訳されています。
 ここは、「人が見えます。木が歩いているように見えます。」と
いうのが、原文からの素直な訳です。が、原文をよく見ると、「人
が見える」の「見る」と、「木が歩いているように見える」の「見
る」とは、別の動詞が使われているのがわかります。「人が見える」
の「見る」は、ただ「物理的に見る」の「見る」、「木が歩いてい
るように見える」の「見る」は、「見て、理解し、受け取る」の意
味の「見る」です。つまり、ここでこの人が言っていることはどう
いうことか、と言えば、この人は、イエスの治療を受けて、見える
ようになりました。人が見えました。しかし、この人にとっては、
「木が歩いている」としか認識されなかった、受け止められなかっ
た、ということなのです。
 このユダヤ人の中途半端な回復がどこに起因するか、と言えば、
それは、ユダヤ人の、イエスを本当には受け入れていない頑固さに
起因するのではないでしょうか。イエスによる神の国、神の支配の
到来の告知は、まず、ユダヤ人に向かってなされました。そして、
宣教活動がなされました。多くの人がイエスを信じました。しかし、
その信仰内容がどうであったか、と言うと、それは、人を見るには
見るが、木が歩いているとしか受け取れない信仰、すなわち、イエ
スの宣教活動を見ても、自分の都合のいいように誤解している信仰、
神の国、神の支配を、本当に自分自身のこととしては受け取れない
信仰だったのではないでしょうか。この人の中途半端な回復は、こ
の人も典型的なユダヤ人であったことを指し示しているようです。
 しかし、イエスは、ユダヤ人が中途半端な回復のままでいること、
神の国、神の支配の中途半端な受け入れのままでいることを「よし」
とされません。放置されません。今度は、この人からの求めがなく
とも、イエスのご意思で、両手をその目にのせられ、何でもはっき
りと見えるようにしてくださいました。このイエスの行為は、イエ
スの十字架と復活とをさし示すものです。十字架と復活の時、ユダ
ヤ人が頑固であったとしても、完全に贖われ、神の国、神の支配の
下に置かれる道が開かれるのです。この人は、完全に癒されること
によって、弟子たちもまだ到達していない、その境地に入れられた
のです。

 26節「イエスは『この村に入ってはいけない』と言って、その人
を家に帰された。」

 ここまで来て、イエスがこの人を村から分かたれた、その意味が
明らかになりました。救いの最先端まで招かれたこの人を、頑固な
ユダヤ人から守るためです。やがて、イエスの十字架と復活の後、
神の国の教会が設立された時、この人は、そこに居場所と働きの場
所とを見出すことでしょう。それまでは我慢せねばなりません。宣
教は、神のご計画に基づき、神のご命令の下になされねばなりませ
ん。
 私たちも、このユダヤ人のような、中途半端な信仰に陥ってはい
ないでしょうか。神の国、神の支配を自分の問題として、心から受
け止めてまいりましょう。

(この項、終わり)


第48回「マルコによる福音書8章27〜38節」
(10/06/27)(その1)

 27節「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の村々に
お出かけになった。」

 イエスは、ベトサイダを出て、弟子たちとフィリポ・カイサリア
地方に行かれました。何をしに行かれたのでしょうか。今回は、こ
の問題から入ってまいります。まず、イエスが「弟子たちと」行か
れたことに注目しましょう。イエスが弟子たちを集められ、弟子た
ちと行動を共にされたのは、6:6b〜の「十二弟子の派遣」以来です。
前回は、故郷ナザレでユダヤ教の会堂と訣別され、神の国の新たな
教会の建設に着手されたイエスが、その教会の新たな十二部族の長
となるべき十二人に、その使命を与えたところでした。彼らは頑張っ
て、一定の成果をあげました。しかし、五千人そして四千人の供食
に際し、彼らは、その教会に仕える働きが十分には果たせず、かな
りもたつきました。でも、心配ないでしょう。彼らも、神の国の完
成の時までにはね鍛え上げられて、よい働きができるようになるは
ずです。では、今回は何のために、と言うと、それは、弟子たちに
十字架を伝えるためでした。
 神の国の教会の建設に着手されたイエスは、残された二つのご使
命の遂行に着手されました。一つは、異邦人伝道です。神の国、神
の支配の到来が、まだ告げ知らされていない地域、人々がいます。
そこに、神の国、神の支配の到来が告げ知らされねばなりません。
それで、マルコによれば、イエスは長い異邦人伝道をされて、そし
て、ガリラヤ地方へ戻って来られました。

(この項、続く)


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