2011年02月27日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第47回「マルコによる福音書8章22〜26節」
(10/06/20)(その2)
(前号より続く)
ヨハネによる福音書では、ベトサイダはペトロとアンデレ、そし
て十二弟子の一人フィリポの出身地とされています。マルコによる
福音書によれば、ペトロとアンデレの家はカファルナウムにあった
とされており、そこに食い違いがあるのですが、「ベトサイダ」は、
ヘブル語では「漁師の家」の意ですので、ベトサイダは、ペトロ・
アンデレの現住所ではなくとも、出身地であった可能性もあります。
ところが、ヨハネによる福音書以外では、ベトサイダの町の評判
はよろしくありません。マタイ11:21(ルカ10:13)には、イエスがベ
トサイダの町を呪った言葉が記されています。
「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前た
ちのところで行われた奇跡がティルスやシドンで行われていたなら
ば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改め
たにちがいない(マタイ11:21)。」
マルコによる福音書には、マタイ・ルカに見られるような、イエ
スのベトサイダへの呪いの言葉はありません。しかし、ベトサイダ
への宣教は、ベトサイダへ舟で向かった弟子たちが逆風のために押
し返されて(6章)、実現しなかったのです。
もうすでにガリラヤ伝道は終了した時期ではありますが、ベトサ
イダ伝道が必要とされていたのです。それでは、それはどのような
経過を辿ることとなったのでしょうか。
22節後半〜23節前半「人々が一人の盲人をイエスの所に連れてき
て、触れていただきたいと願った。イエスは盲人の手を取って、村
の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をそのうえに置いて」
異邦人の地においても、イエスに救いを求める人がいました(7:31〜)。
その人は耳が聞えず、舌がまわらない人でした。イエスのところへ
連れていってほしい、イエスに手を置いていただいて癒してほしい、
と願ったこの人は、人々の助けを借りてイエスの許へ来たのです。
同じように、ベトサイダでも、一人の盲人が、イエスの許へ連れ
ていってほしい、イエスに触れていただきたい、と願っていました。
それで、人々はその人(代名詞によれば男性です)をイエスのところ
へ連れて来て、触れていただきたい、と願いました。異邦人の地で
も、ガリラヤでも、イエスの救いを求める人、必要としている人が
いることに変わりはありません。そして、その求める人を支えよう
とする、心優しい人がいることにも変わりありません。7:22と8:22
とは、固有名詞や病状こそ違え、そこで使われている用語や表現が、
原文のギリシア語においても全く同じであることに驚かされます。
救いを求める人に対する治療についても、イエスは、異邦人とユ
ダヤ人を差別されません。まず、治療のために、今回は相手が盲人
のゆえに手をとって、患者を連れて行かれ、一対一になられます。
第二に、唾をつけて、手を患部に当てて治療されます。この治療法
は現在でもマニュアル医療と呼ばれるものであり、当時では最高の
医療方法でした。異邦人のためにも、ユダヤ人のためにも、同じよ
うに心を込めて治療されたのでした。
ただし、今回、イエスは、患者を一対一で治療するために連れて
行かれるとき、前回異邦人の患者に対してはなされなかった特別の
気遣いをしておられます。前回異邦人の患者の時にされたように、
この人を人々から引き離すに止まらず、村の外まで連れ出されたの
です。なぜ、イエスがそこまでされたのでしょうか。私たちは、そ
のような疑問を抱えつつ、先へ進んでまいりましょう。
さて、治療の結果はどうだったでしょうか。
23節後半〜25節「『何か見えるか』とお尋ねになった。すると、
盲人は見えるようになって、言った。『人が見えます。木のようで
すが、歩いているのがわかります。』そこでイエスがもう一度、両
手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっ
きり見えるようになった。」
治療の結果は、異邦人の場合とユダヤ人の場合とかなり違いまし
た。異邦人の耳が聞えず舌が回らない人の治療の場合には、イエス
がその人に向かって、「エッファタ(開けよ)」と言われると、「た
ちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるよ
うになった(7:36)」のです。ところが、今回のユダヤ人の盲人の患
者さんの場合には、イエスが治療後、「何か見えるか」とお尋ねに
なったところ、見えるようにはなったのですが、まだはっきりとは
見えないのです。人が見えるのですが、木が歩いているように見え
るのです。それで、イエスがもう一度両手をその目に当てられるこ
とが、つまり再度の治療が必要でした。
この回復の「すぐに」と「徐々に」との違いは、何に由来するの
でしょうかる症状の違いに由来するのでしょうか。しかし、イエス
が盲人を癒された、もうひとつの物語、10:46〜の「盲人バルテマイ
をいやす」の物語を見ると、患者はすぐに見えるようになっており、
イエスが視覚しょう害の治療により困難を覚えた、とは考えられな
いのです。だとすると「すぐに」と「徐々に」の違いは、異邦人と
ユダヤ人との違い、それも、異邦人とユダヤ人の、イエスを受け止
める姿勢の違い、そこに由来するのではないでしょうか。
(この項、続く)
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