2011年02月13日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第46回「マルコによる福音書8章11〜21節」
(10/06/13)(その2)
(前号より続く)

 しかし、イエスが神の国の教会の建設を決意され、ユダヤ教との
訣別を決心されたからには、イエスはもはやユダヤ教の改革者では
なく、ユダヤ教にとっては背教者、敵対者です。ファリサイ派は、
イエスを糾弾するチャンスを得たのです。これ以後、マルコでは三
回、ファリサイ派がイエスを糾弾するためにテストをする、という
ことが起こりますが(10:1〜、12:13〜)、今回の出来事はその一回目
です。
 さて、ファリサイ派の人々は、「試そうとして」とあるごとく、
イエスを糾弾するきっかけをつくろうとして、イエスに「天からの
しるし」を求めました。この求めがどうして糾弾のきっかけになる
のか、旧約聖書から振り返ってみることが必要です。しるしと訳さ
れている語は、ギリシア語では、セーメイオンという語です。この
語は、ギリシア語のセーマイノー(示す)という語から来ており、「
あるもので、何か別のものを指し示す」ことを言います。日本語で
合図と呼ばれていることも、ギリシア語ではセーメイオンと言いま
す。そこで、聖書では、セーメイオン(しるし)という語は、しばし
ば神のみ業を指し示すものについて用いられてきました。聖書で一
番印象的なセーメイオン(しるし)は、ノアの洪水の後に現れた虹で
す。地のすべてを拭い去ってしまうような大洪水の後、神は、生き
残ったノアに、「わたしがあなたたちと契約をしたならば、二度と
洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水
が起こって地を滅ぼすことも決してない」と言われて、新世界の担
い手としてのノアと祝福の契約を結ばれました。そしてそのセーメ
イオン(しるし)として虹を置かれたのです。もちろん、そこに置か
れたのはただの虹に過ぎません。しかし、それは神が人間に立てら
れた契約のしるしとなったのです。それゆえ、神は虹を見られるた
びごとに、この契約を思い起こされ、「ああ、人間を大切にしなけ
れば…」との思いを新たにされるのです(創世記9:9-17)。
 しかし、セーメイオンという語は以上のような用いられ方をする
に止まりませんでした。更に進んで、セーメイオンは、神から遣わ
された者、たとえば、預言者が、その言葉が真実であることを示す
「証拠としての奇跡」を指す語ともなりました。モーセとアロンは、
預言者としてエジプトのファラオの許に遣わされましたが、セーメ
イオンとして、十一の奇跡を行いました。これらの奇跡、それはセー
メイオンの第三の意味ということになります。ここで、ファリサイ
派がここで求めたものは、第三の意味のセーメイオン、イエスが真
実、神から遣わされたことを証明する証拠としの奇跡だったのです。
 さて、それでは、このファリサイ派の求めに応じて、イエスがも
しも奇跡を行ったならば、ファリサイ派はイエスを神から遣わされ
た方として信じたでしょうか。もしそうであれば、敵をも納得させ
たイエスということで、この物語は美しい結末を迎えたはずだった
のですが、そのような結末には至りませんでした。なぜでしょうか。
もう一度旧約聖書に戻りますが、モーセが第三の意味のセーメイオ
ンとして奇跡を行った時、実はエジプトの魔術師たちも、途中まで
ではありますが、同じ奇跡を行いました。アロンが杖を投げてヘビ
にしたとき、エジプトの魔術師たちも同じ奇跡を行いました。モー
セとアロンがエジプト中の水を血に変えたとき、エジプトの魔術師
たちも同じようにしました。さらに、蛙を上らせたときも、同じこ
とが起こりました。もっとも、エジプトの魔術師がついて来られた
のはここまでで、そこから先は、モーセとアロンの独壇場になった
のですが、奇跡は、たとえ神から遣わされた者ではなくとも、ある
程度まではできる、ということなのです。つまり、神から遣わされ
てはいないのに、神から遣わされたとして、奇跡を使って人をだま
すことができる、ということです。このような人を、旧約聖書では
偽預言者と呼んでいます。
 偽預言者については、早くから気づかれており、旧約聖書では、
奇跡が人をだますために用いられることへの警告がなされていまし
た。それが本日の旧約書、申命記2:1-11、特に2-6節です。預言者、
ここで言う預言者は、自称預言者です。その者がちょっと奇跡を行っ
て見せ、自分が真性の預言者であると主張したり、あるいは人々を
他の神々へ導いたりすることがあるから、注意しなさい、という訳
です。
 第三の意味でのセーメイオン、奇跡への警戒感は時代と共に深まっ
てきました。そして、イエスの時代のユダヤ教においては、実は、
セーメイオンとしての奇跡は、ほとんど完全否定されていました。
あるラビはこう言います。「トーラーがすでにシナイ山で与えられ
ているではないか。だから我々の時代は、天からのエコー(こだま=
奇跡)に注意を払う必要はない。天からの声はすでに、シナイ山でトー
ラーの中に書かれたのだ。」要するに、イエスの時代のファリサイ
派の人々が、第三の意味でのセーメイオン、奇跡を信じていた形跡
はほとんどないということです。
 では、なぜ彼らは、信じてもいないのに、イエスに天からのしる
し、第三の意味のセーメイオン、奇跡を求めたのでしょうか。

(この項、続く)


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