2011年02月06日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第45回「マルコによる福音書8章1〜10節」
(10/06/06)(その3)
(前回より続く)

 しかし、イエスは、これらの人々、イスラエル以外の人々を、賛
助会員としてではなく、正会員として、神の国の食卓にお招きにな
られるのです。

 6〜9節前半「そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七
つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るよう
にと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。また、
小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るよう
にと言われた。人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集める
と、七籠になった。およそ四千人の人がいた。」

 前回と同じように、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、
これを裂き、弟子たちに配らせました。また、少しだけあった魚も、
同じようにして配らせました。「感謝の祈りを唱え」は、「賛美の
祈りを唱え」とは言葉が違いますが、「聖別する」の意味です。こ
うして十二人は、神の国の新しい十二部族のリーダーとして、イス
ラエルの人々だけでなく、異邦人たる信徒にも仕える者として整え
られていったのです。前回と同じく、「人々が満腹した」というこ
とは、十二人がその務めを十分に果たしたことを意味します。
 前回といくつか異なる点があります。前回は、イエスが人々を整
列させられたのに、今回は整列させていません。神の国の教会に異
邦人も招き入れられるとうことは、この教会が完成に近づいている、
ということです。そうなると、十二部族の部族間の境目も必要なく
なって参ります。それゆえです。残ったパン屑が、前回は十二の籠
いっぱいだったのに、今回は七つの籠です。異邦人が加わったこと
により、十二人が与えるべき食べ物の残りが減ってきた、というこ
ともあるかも知れません。が、それと同時に、七という数字に注目
したいと思います。七という数字は、地上を隈なく見守る神の御目
の数です(ゼカリヤ書4:10)。異邦人も教会に招かれたこの段階にお
いて、さらに、残りの者には、主の御目が隈なく注がれている、と
いうことです。四千人という数も、実数としては五千人よりも少な
いのですが、四という数字には、世界の四隅という意味もあり(ゼカ
リヤ書6:1-5)、神の招きが全世界に及びつつあることを指し示して
います。異邦人も招かれた今、神の国、神の支配の完成は近いので
す。

 9節後半〜10節「イエスは彼らを解散させられた。それからすぐに、
弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方へ行かれた。」

 もちろん、神の国の完成はこれからのことですが、神の国の完成
を指し示す食事へと招くことによって、イエスの異邦人伝道はその
目的を達成し、ひとまず幕を下ろします。イエスは再びガリラヤへ
戻られ、十字架への道を歩み続けられます。イエスが行かれたダル
マヌタ地方がどこを指すのか、今では全く分かりません。が、イエ
スが十字架に架かられるエルサレムにも通じる、ガリラヤの首都テ
ィベリウスの近郊とも考えられます。ともかく、イエスは十字架へ
の道を歩まれます。
 イエスは、神の国、神の支配の下での食事に異邦人をも正会員と
して招いていてくださるのに、教会の時代にして、私たちは、弟子
たちと同じように、非常に身勝手な差別を持ち込んではいないでし
ょうか。神のみ心としての主イエスの招きが、本当に世界の隅々に
まで及ぶことを確認し、私たち自身も、招かれた一人として、その
招きに応える者となりたいものです。

(この項、終わり)


第46回「マルコによる福音書8章11〜21節」
(10/06/13)(その1)

 11節「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天か
らのしるしを求め、議論をしかけた。」

 しばらくぶりにファリサイ派が登場します。ファリサイ派が登場
することよって、イエスがガリラヤへ戻って来られたことがわかり
ます。もっとも、7:1以下でもファリサイ派が登場してきているので、
マルコによる福音書としてはしばらくぶりではない、かも知れませ
ん。しかし、7:1以下については、現在はこの位置に置かれています
が、本来は1〜3章に記されたガリラヤ伝道の時に起こった出来事と
考えられます。
 さて、ガリラヤ伝道において、イエスとファリサイ派とはどのよ
うな分かれ方をしたのでしょうか。それは、3:6「ファリサイ派の
人々は出て行き、早速ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイ
エスを殺そうか、と相談し始めた。」でした。ガリラヤ伝道に際し、
自ら「安息日の主」と名乗られ、ご自身に「罪を赦す権限」さえあ
られることを主張されて、「律法違反」を繰り返されるイエスをフ
ァリサイ派は、神を冒瀆する者として死罪をもって断罪することを
決断した、ということでした。
 そのファリサイ派にイエスを糾弾するチャンスがやって来ました。
イエスが、神の国、神の支配の完成を求めて、神の国の教会の建設
を決意されたことです。それまでは、イエスは、とにもかくにもユ
ダヤ教の枠内で活動して来られました。どんなに厳しいユダヤ教批
判をされても、それはユダヤ教をよりよくするため、すなわち、イ
エスの働きは、ユダヤ教の改革運動と受け取ることもできました。

(この項、続く)


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