2011年01月30日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第45回「マルコによる福音書8章1〜10節」
(10/06/06)(その2)
(前回より続く)
2-3節「群衆がかわいそうだ。もう三日も私と一緒にいるのに、
食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしま
うだろう。中には遠くから来ている者もいる。」
群衆の様子です。「五千人の供食」の時、群衆は「飼い主のいな
い羊」のような有様でした(34節)。この「飼い主のいない羊」とい
う表現は、旧約聖書、エゼキエル書34章から来ています。捕囚時の
預言者エゼキエルは、祖国を追われ、散らされているイスラエルの
民をこう表現しました。イエスの時代、イスラエルの民はとっくに
祖国復帰を成し遂げていたのですが、神のみ心を見失い、その有様
は、やはり「飼い主のいない羊」でありました。神の国の教会の建
設を決意されたイエスは、まず第一に、このようなイスラエルを憐
れまれ、二度と散らされることのないよう、神の国の教えを教えら
れ、新たな十二部族から成る神の国へと招かれ、その神の国の食事
へと共に招かれました。それが「五千人の供食」でした。それゆえ、
現実には一部族半しか残っていないイスラエルが、十二人の許、新
たな神の国の十二部族に再編されるのです。
一方、今回の群衆についてはどうでしょうか。旧約聖書の時代に
は、神の選びに与ることのなかった人たちです。とは言え、これら
の人々が寂しくしていた、とか、悲しんでいた、とも言い切れませ
ん。多くの人々は、神がいないのをいいことに、好き勝手なこと、
したい放題のことをしていたのではないでしょうか。しかし、その
ような民をもイエスは憐れまれます。2節で「かわいそうだ」と訳さ
れている語ですが、6章34節で「憐れみ」と訳されている語と、原語
は同じです。
このように一方は「飼い主のいない羊」のような状態、他方はそ
もそも神などいない状態にいた人々ですが、どちらも魂の飢え渇き
を覚えていたことは確かです。前回は、イエスと弟子たちとが人里
離れた所(=荒野)へ行って神との交わりに入ろうとしていた時、群
衆が後をついて来てしまいました。神との交わりを回復したいとい
う思い、切なる願いが、たとえ心の片隅にであったとしても、あっ
たのではないでしょうか。一方、そもそも神などいないと思ってい
る人たちも、何とか救われたいという思い、パウロがローマの信徒
への手紙8章22節で言っている、「被造物の心のうめき」が、心の奥
底にはあるのでしょう。旧約聖書を知らない民であるからして、神
を求める方法も知らないのですが、イエスに出会った時に、その救
いの求めにふれるものを直感的に感じとり、後につき従って来てし
まったのではないでしょうか。
前回は一日だったけれど、今回は三日で、空腹の程度が格段に違
うから特別の配慮をして、ということではなく、「三日もイエスの
後について来る」ということに魂の切なるうめきを覚えられたイエ
スは、その求めを高く評価されて、この人々を神の国の教会の十二
部族へ招き入れることを、つまり神の国の食事へ招待されることを
決心されました。
そうと決まれば、十二人の出番です。
4-5節「弟子たちは答えた。『こんな人里離れた所で、いったいど
こからパンを手に入れて、これだけの人に十分に食べさせることが
できるでしょうか。』イエスが『パンは幾つあるか』とお尋ねになる
と、弟子たちは、『七つあります』と言った。」
十二人は、神の国の新たな十二部族の教会の、それぞれの部族に
仕えるために召された人たちです。それゆえ、いざ、神の国の食事
となったならば、それぞれの部族の食事のために仕えねばなりませ
ん。何としても、パンを得るために走らねばなりません。ところが、
前回は、最初からこのような使命に仕えることをあきらめ、イエス
が「それでも」と言われると、「わたしたちが二百デナリものパン
を買って来て、みんなに食べさせるのですか。」と、自分たちがそ
の使命に遣わされていることをすっかり忘れた言葉を述べました。
十二人の不信仰が暴露されました。
今回は、と言うと、前回と違って、最初からのあきらめの言葉、
解散の提案はありませんでした。しかし、イエスの、この人々を神
の国の食事に招きたいという決意表明に対して、またもや、「こん
な人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけ
の人に十分食べさせることができるでしょうか。」と、使命そのも
のを忘れた言葉を述べています。
前回の間違いを繰り返したのです。弟子たちのあまりの学習効果
のなさにあきれる人も多いのではないでしょうか。なぜ、弟子たち
は二度も同じ間違いを犯してしまったのでしょうか。それは、実は、
神の国に招かれた群衆が、前回と今回とでは違うからです。前回の
出来事を通して、十二人は、イエスが神の国の新しい十二部族の教
会を再編しようとしておられることを知ったことでしょう。しかし、
イスラエルの伝統を引き継ぐ、ごく普通のユダヤ人である弟子たち
には、神の国の新しい十二部族の教会に、異邦人も正会員として招
かれていることなど、思いが及ばなかったのです。たとえ、イエス
がこれらの人々を神の国の食事に招く、強い意志をお示しになられ
たとしても、「自分の仕事ではない」と思ったのではないでしょう
か。
(この項、さらに続く)
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