2011年01月23日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第44回「マルコによる福音書7章31〜37節」
(10/05/16)(その3)
(前号から続く)

 医療の優秀さ、特異性によってではなく、神のみ業がなされるこ
とによって、この人の耳は開き、舌のもつれは解け、はっきり話す
ことができるようになって、この人の困難は解消されました。何よ
りも、この人は自分の力で神を讃美できる力を得、神の国の教会の
一員として、なくてはならない存在となったのです。
 が、このようなすばらしいみ業がなされたにもかかわらず、イエ
スは不思議な命令を出されました。

 35-37節「イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、
と口止めされた。しかし、イエスが口止めされればされるほど、人々
はかえってますます言い広めた、そして、すっかり驚いて言った。
『この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人
を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。』」

 せっかく、神の国、神の支配の到来のしるしが目で見える形で示
されたのに、イエスはそれを語るな、伝えてはいけない、と言われ
ます。なぜでしょうか。それは、神の国、神の支配到来が告げられ
ても、まだ完成の時を迎えていないからです。理解されないからで
す。
 実は、この時点で、神の国の秘密は、ダイモニオンと異邦人にだ
けは明かされていました。が、ユダヤ人には隠されたままです。ユ
ダヤ人である弟子たちにも隠されたままです。そういえば、十二弟
子は、この物語には登場しません。いなかったのでしょうか。いな
かったのではなく、イエスのことをほめたたえる人々と、弟子たち
の間にはずれがあったのではないでしょうか。神に選ばれて、しか
も神に背くユダヤ人の罪は重いのです。
 一方、かつては神の救いからもれている、とまで言われた異邦人
はどうでしょうか。神をほめたたえずにはおれませんでした。「す
っかり驚いて」と訳されている語は、マルコでは、いや福音書全体
でも、ここだけで用いられている語で、最大級、超ど級の驚きを表
します。イエスの宣教活動の中で、この異邦の人々が、神の国神の
支配の喜びを、最大の驚きをもって、つまり正確に受け止めたので
す。その正確さは、本来彼らが知りえないはずの、旧約聖書、イザ
ヤ書35章の終末到来の喜びの訪れを、ほめたたえの中で言い表すほ
どでした。
 私たちは、自分が、ここに出てくる異邦人であるのか、ここに出
てこないユダヤ人であるのか、どちらなのかが問われています。神
に選ばれた民という自覚を持っていたとしても、神について知って
いるつもりになっていたとしても、イエスの前に進み出て、謙虚に
救いを求める主体的行為にかけていたとすると、せっかくの神の支
配の喜びを見逃してしまう愚を犯しかねません。イエスの前に出て、
救いを求める、すべてはそこに尽きます。

(この項、終わり)


第45回「マルコによる福音書8章1〜10節」
(10/06/06)(その1)

 1節「そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったの
で、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。」

 「そのころ」と訳されている、同じ原語が13:24では、「それらの
日々には」と訳されています。ここで言う「それらの日々」とはど
ういう日々なのか、そこから入ってまいりましょう。
 6章において、神の国の教会の建設に着手されたイエスは、7:24以
降、残された課題の一つ、異邦人伝道に取り組んで来られました。
最初ティルスの地方へ赴かれたイエスは、一人になられて、異邦人
伝道の方法について、父なる神のみ心を求められました。そこで、
一人の異邦人女性の、貪りを捨てた、謙虚な心に触れられ、その謙
虚を通路として、異邦人にも、神の国の到来、神の支配の到来とい
う福音を告げ知らせられることとなります。イエスはそこから、さ
らに北方のシドン地方に行かれ、フィリポ・カイサリアを経て、デ
カポリス地方を抜けられ、異邦人伝道を続けられました。
 7:31以下には、こうして異邦人伝道を続けられて、ガリラヤ湖沿
岸まで来られた時の出来事が記されていました。そこには、耳が聞
こえず、舌の回らない人がいました。この人には、旧約聖書の知識
はありませんでしたが、神の救いを求める謙虚さを持ち合わせてお
り、それゆえ、イエスはこの人の上に、神の国、神の支配の到来の
しるしを癒しという形でお示しになられたのです。イエスのお見通
しどおり、この人、そして周囲の人々は、この出来事を、神の国、
神の支配の到来の出来事として、弟子たち以上に正しく受け止め、
神を讃美しました。
 「そのころ」とは、そのイエスの異邦人伝道もいよいよ締めくく
りの時を迎えようとする、その日です。イエスはまだガリラヤ湖東
岸の異邦人居住地域におられます。そしてここでもまた、カファル
ナウムでの宣教の時と同じく、大勢の群衆がイエスの後をついて来
ていました。その多くは、いや全部だったかもしれませんが、異邦
人です。そして、これまた「五千人の供食(6:34以下)」の時と同じ
く、彼らは空腹状態にありました。こういう状況の下で、イエスは
再び弟子たちを試しました。

(この項、続く)


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