2011年01月16日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第44回「マルコによる福音書7章31〜37節」
(10/05/16)(その2)
(前号から続く)

 ティルスから、イエスがデカポリス地方に属するガリラヤ湖地域
へ来られたことは確かとしても、そのコースについては、諸説紛々
です。が、私たちには無理に思えても、イエスは、マルコの記事ど
おりの道を歩まれたのではないでしょうか。神の国神の支配の到来
が告げ知らされていないところは、ティルスだけではありませんで
した。イエスは、この機会にできるだけ遠くまで足を伸ばされたの
ではないでしょうか。確かにシドンでの宣教の記録は残されていま
せん。しかし、イエスはシドンでも神の国、神の支配を告げる宣教
活動を展開されたのではないでしょうか。
 結局、イエスの大迂回は、イエスの伝道旅行でした。イエスの通
られたところはすべて異邦人の地ですので、ここはイエスの異邦人
伝道の記録、イエスによる「使徒言行録(イエスは使徒ではありま
せんが)」とも言ってよい箇所です。
 その宣教活動の中で、典型的な出来事が取り上げられています。
それはデカポリス地方での出来事でした。

 32節「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上
に手を置いてくださるようにと願った。」
 すでに、ティルスでの出来事において示されたように、異邦の地、
異教の地だからといって、神を冒瀆する人ばかりがいるわけではあ
りません。救いを求めている人がいます。その人は耳が聞こえず、
舌が回りませんでした。舌が回らない、と訳されている語には、全
く話すことができない、という意味もありますが、一般には、話す
ことに困難を覚える状態、すなわち「言語障害」と言われる状態を
指す言葉です。場合によっては、声がしわがれている状態を指すこ
ともありました。だとすると、この人は、全く話せなかったのでは
なく、35節にも「舌がもつれる」と記されているように、他の人と
意志を通じ合うのに、困難を覚えていた人かも知れません。
 しかし、にもかかわらず、この人は、この困難を何とか乗り越え
たいという願い、意志を持っていたように見えます。人々に頼んで、
イエスの許へ連れて行ってもらったのでしょう。さらに、この人が、
人に頼んで、「手を置いてほしい」、すなわち、治してほしいとい
う意志をイエスに伝えてもらったのではないでしょうか。救いに与
るために、ただ待っているだけでは道は開けない、この人はそのよ
うに考えて、困難の中においても、救われたいという意志を持ち、
人にもそのために助けてくれるように頼み、そしてイエスの前に進
み出たのです。この一連の主体的行為を通して、主イエスのみ業は
実現しました。もちろん、イエスはすべての人のために救いを用意
していてくださいます。しかし、私たちが、知らん顔をしたり、心
を閉ざしているのではなく、イエスの前へ進み出て、求める時、救
いは確かに受け渡されるのです。
 その進み出た者を、イエスは救いのために連れ出してくださいま
した。

 33-35節「そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、
指をその両耳にさし入れ、それから唾をつけてその舌にふれられた。
そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって『エッファタ』
と言われた。これは『開け』という意味である。すると、たちまち
耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになっ
た。」
 現代の機械や薬を多く用いる医療に慣れた目から見ると、ここで
イエスがなされた医療は、一見非科学的に見えるかも知れません。
しかし、耳に指を入れる、唾をつける、舌にふれるという「マニュ
アル医療(手作りの医療)」と呼ばれる医療は、当時のギリシアやユ
ダヤの医師がごく一般的に用いる方法でした。現代でも、「マニュ
アル医療」は一定の役割を認められているようですが、イエスは、
当時の医者が一般に行う医療法をもって、この人の困難を解決しよ
う、と治療を試みました。
 ただ、イエスの医療が他の医師と異なっていたところは、「天を
仰いで深く息をつき、その人に向かって『エッファタ』と言われた
ことです。イエスは何をどのように思われて深く息をつかれたので
しょうか。イエスが、この人に対する深い同情や憐憫の情から、い
たく気の毒に思われて「深く息をつかれた」と解釈することも可能
です。しかし、この「深く息をつき」と訳されている語は、ローマ
の信徒への手紙8:24でパウロによっても用いられている語です。そ
こでは、被造物が救いを求める「うめき」の意味で用いられていま
す。だとすると、ここでも、イエスは、被造物として罪の中に苦し
み、しかも自ら抱えている困難の中で、救いを強く求めている、こ
の人の「うめき」を覚えられた、ということではないでしょうか。
イエスは、天を仰いで、この人のためにとりなしの祈りを献げられ
たのです。
 イエスの医療方法はごく普通のものです。しかし、神の罪人への
救いの業として癒しがなされることを求めて、その人に関わられま
した。そこが違うのです。ちなみに「エッファタ」についても、だ
れも意味が分からない魔術用語ではありません。イエスは、皆が普
段話しているアラム語で、ご意思を伝えられたのです。

(この項、続く)


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