2010年12月19日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第42回「マルコによる福音書7章14〜23節」
(10/04/25)(その2)
(前回に続く)
レビ記11章には、申命記14章3-21節と並んで、イスラエルの民が
食べてはいけない、とされるものが列挙されています。
まず、地上の動物ですが、反芻するだけか、蹄が分かれているだ
けの動物は食べてはいけません。(律法の規定によれば、いのしし鍋
はアウトです。)
魚類では、具体名を挙げて食用が禁止されています。禿鷲、ひげ
鷲、黒禿鷲、鳶、隼の類、烏の類、鷲みみずく、小みみずく、虎ふ
ずく、鷹の類、森ふくろう、魚みみずく、大このはずく、小きんめ
ふくろう、このはずく、みさご、こうのとり、青鷺の類、やつがし
ら類、こうもりがいけません。(私たちもほとんど食用に用いないも
のばかりです。)
昆虫はすべて禁じられています。のはずですが、いなごの類、羽
ながいなごの類、大いなごの類、小いなごの類は食用オッケーです。
爬虫類はすべて食用に供することができません。特にもぐらねず
み、とびねずみ、とげ尾とかげの類、やもり、大とかげ、とかげ、
くすりとかげ、カメレオンに関しては、食用はもちろんのこと、死
骸にふれることも汚れるとされています。衛生上の理由があるので
しょうか。
レビ記では以上ですが、それではなぜこれらの動物が汚れている
とされ、食用を禁じられているのでしょうか。これらの動物が神に
背く存在なのでしょうか。そうではありません。なぜなら、天地創
造の際、神は万物をお造りになられ、すべての動物をもお造りにな
られ、そして「よし」として祝福されたのです。が、それ以後、こ
れらの動物たちは、おそらく偶像礼拝にかかわる、などの用い方を
され、「汚れている」とされたのではないか、と推測されます。だと
すると、衛生上の理由などを除いては、人間の罪が動物の穢れを生
んだ、と言えるのではないでしょうか。
が、イスラエルが食物規定を守って生活することには、積極的な
意味もあったことを忘れてはなりません。「外側を整えることの大
切さ」を確認したことです。レビ記11:44には、「あなたたちは自分
自身を聖別して聖なる者となれ。」と記されています。イスラエル
人が食物規定を守る目的は、聖なる者になることです。聖なる者と
は、神の前で外面的に立派な人、いわゆる礼儀正しい人のことです。
礼儀正しさ、それは外面だけではないか、と思われがちです。が、
礼儀正しい行いを繰り返しているうちに、心も内面も整ってくると
いうこともあるのです。ユダヤ教の律法学者の中には、食物規定を
きちんと守っていくことで、心の中に謙遜さという徳が身に着いて
きて、本当に心が清くなる方向へ導かれると説く者もおりました。
外から中へという信仰の入り方と言えるでしょう。日本文化におい
ては、神道、武道など、人は道をもって物事を極めて来ましたから、
このようなユダヤ教的アプローチは、日本人には身近なものかも知
れません。
そして、キリスト教も決して外面を無視しているわけではありま
せん。とは言え、キリスト教は、特にプロテスタント・キリスト教
は、人の内面のあり方を厳しく見つめてきました。人は、本心から
悔い改め、本心からイエス・キリストの十字架を受け入れ、そうし
て初めて救われるのです。しかし、その信仰の予期せぬ産物として、
心で信じているのだから外面はどうでもいいではないかという考え
方とか、あるいはまた、外面が悪い方が救いが確かとなる、といっ
た開き直りなどが発生してきたことも確かです。19世紀のアメリカ
の一部の教会がそうでした。それらの教会では、不道徳な行いが蔓
延しました。そこで、アメリカの教会の中で、規律を正そう、つま
り外面を正そうとするホーリネス運動が始まったのです。そして、
日本のホーリネス系の教会はこのホーリネス運動の流れの中で生ま
れました。イエスは、決して外面はどうでもよい、とおっしゃられ
たわけではありません。それでは、イエスのお考えはどのようなも
のなのでしょうか。
17-23節「イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちは、こ
のたとえについて尋ねた。イエスは言われた。『あなたがたも、そ
んなに物分りが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を
汚すことができないことがわからないのか。それは人の心の中に入
るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、す
べての食物は清められる。』更に次のように言われた。『人から出
てくるものこそ、人を汚す。中から、つまらり、人間の心から、悪
い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、
貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これ
らの悪はみな中から出てきて、人を汚すのである。』」
だれにでも分かるように、やさしい話をされたはずなのに、弟子
たちにとって、イエスのたとえはなぞとなってしまいました。そこ
で、弟子たちは、このたとえの意味をお尋ねしました。イエスの答
えの核心は、「すべての食べ物は清められている」にあります。こ
れは、どういうことなのでしょうか。
(この項、続く)
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