2010年12月12日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第41回「マルコによる福音書7章1〜13節」
(10/04/11)(その3)
(前号より続く)

 どの宗教の歴史においても、宗教の堕落が起こり、宗教改革が必
要となったとき、掟をより厳しく守ることにより、その危機を乗り
越えよう、という動きが出て来ます。キリスト教の歴史においても
そうでした。いわゆる宗教改革に先立つこと200〜300年前、フラン
スにカタリという改革運動が起こりました。そもそもカタリという
名自体が、カタリス(清浄)という語から来ており、彼らは禁欲を旨
とし、この世との接触を避け、掟を完全に守ることにより、キリス
ト教を清めようとしました。が、成功したとは言えません。真の宗
教改革は、外にある汚れを避けることによってではなく、自分自身
の中にある汚れの大元、深い罪の自覚があって初めて始まるのでは
ないでしょうか。

 9-13節「更に、イエスは言われた。『あなたたちは自分の言い伝
えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モー
セは、「父と母を敬え」と言い、「父または母をののしる者は死刑
に処せられるべきである」とも言っている。それなのに、あなたた
ちは言っている。「もし、だれかが、父または母に対して「あなた
にさしあげるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物で
す」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済
むのだ』と。こうしてあなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言
葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行って
いる。」

 コルバンとは、当時のユダヤ人が、誓いの時に、神の名をみだり
に唱えることを十戒の第三戒で禁じられているものですから、その
代わりに多用した言葉です。献げ物との意味です。たとえば、「も
し、調理した料理を食べたらコルバン」などと言うのです。非常に
敬虔なようでいて、実は自分の都合のいいように、神の名を濫用し
ているだけです。時として、コルバンが律法を冒瀆しかねない事態
も起こってきます。さすがにファリサイ派も、「あなたにさしあげ
るべきものは、何でもコルバン(11節)」というようなことは、実際
には言わなかったようですが、ファリサイ派の形式主義のなれの果
てを、ほとんど笑い話のごとくに語られて、イエスはファリサイ派
と訣別されるのであります。
 人が清められる道は、人の中にある罪が贖われることによってし
か、つまり十字架の贖いによってしか成し遂げられないことを、マ
ルコは、この初期の物語をここに挿入することにより、確認してい
るのです。

(この項、終わり)


第42回「マルコによる福音書7章14〜23節」
(10/04/25)(その1)

 前回は、十字架への道を急がれるイエスが、口伝律法を作り出し、
それを民衆に守らせようとするファリサイ派の宗教改革の進め方に
対し、それを偽善と決め付け、訣別されたところを学びました。今
回、イエスは更に突っ込んで、律法の規定そのものを問題視されま
す。

 14節「それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。『皆、
わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので
人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、
人を汚すのである。』」

 まず、最初に、イエスがこの教えを語られたのは、いつ、どこで
であるか、ということです。物語の流れに従って言えば、イエス一
行がゲネサレトに上陸され、ティルス地方に向かって行かれる途中
の出来事ということになるのでしょうが、イエスがこの時点で、こ
の場所で、群衆を集めて教えられたということは考えられません。
しかも「再び呼び寄せられた」のですから、この時、この場所での
出来事ではなく、カファルナウムで宣教が軌道に乗った頃の出来事
と考えられるのです。
 さらに、イエスはこの教えをたとえとして語られました(17節)。
カファルナウムでの宣教においても、イエスは、時が熟した時、そ
の教えをたとえという形で語られました(4章)。この物語は本来は、
イエスがカファルナウムで語られたたとえによる教えの一つだった
のではないでしょうか。それが、ファリサイ派との訣別を明らかに
する物語との関連で、律法に係わる教えとして、マルコによってこ
こに置かれたのでしょう。

 さて、今回のイエスのたとえ話の内容は次のようなものでした。
「外から人の体に入るもので人を汚すことのできるものは何もなく、
人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
 4章の講解の時にも申し上げたとおり、イエスのたとえは、神の国
の真理を、日常だれでも体験する、易しい話で説明するところにそ
の特徴があります。イエスはここで、私たちが毎日欠かさず体験し
ている食生活のことを言っておられるのでしょう。尾篭な話で恐縮
ですが、私たちが汚いものを食べてしまったとしても、下痢は起こ
すかもしれませんが、排泄すればそれは出て行ってしまいます。私
たち自身が汚れることはありません。これに反して、私たちの体の
中に毒素があれば、それが本で体全体に毒素が回るわけです。分か
りやすい話です。そして、明らかに、イエスはこのたとえをもって
律法の食物規定に挑戦しておられるのです。それでは、律法の食物
規定とは、どのようなものでしょうか。

(この項、続く)


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