2010年12月05日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第41回「マルコによる福音書7章1〜13節」
(10/04/11)(その2)
(前号より続く)

 たとえば、ここで問題となっている手の洗浄について見てみましょ
う。祭司たちは祭壇に進み出るのが仕事です。お勤めに際しては、
身を、そして手を清めるのが当然の義務です。律法でも、たとえば、
出エジプト記30章19〜21節においては、祭司が祭壇に近づく時には
手足を洗い清めねばならない、と定められています。しかし、ファ
リサイ派は、その祭司の行う洗いを一般民衆にも、要するにユダヤ
人全員に要求します。が、一般民衆が祭壇に近づくわけではありま
せんから、律法には一般民衆の洗いの規定などありません。しかし、
一般人にも手を洗わせたい。そこでどうするかと言うと、ファリサ
イ派は「昔の人々の言い伝え」なるものを見つけ出し、あるいは作り
上げて、ファリサイ派の律法学者たちが、「これは、書かれた律法
と同じ権威がある」と宣言し、こうして定められた新たな律法を口
伝律法といいますが、その口伝律法において手足を洗浄する規定を
細かく定め、違反者を厳しく取り締まったのです。
この口伝律法にイエスの弟子の一部の人が引っ掛かりました。

 2-5節「そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わな
い手で食事をする者がいるのを見た。―ファリサイ派の人々をはじ
めユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗っ
てからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を
清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝
台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさ
んある。―そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。
『なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚
れた手で食事をするのですか。』」

 この当時、どのような口伝律法が流布していたのか、詳しいこと
は分かりません。逆に、このマルコの記事が当時の口伝律法の状況
を知る手がかりになるくらいです。しかし、手を洗う問題について
は、当時のユダヤ教文献によれば、おおよそ次のようなことが定め
られていたようです。祭司の場合と違って、一般人は儀礼に係わる
ことはないのですが、食事そのものが聖なる場に準ずるものとされ
ました。これは、儀礼の場でいけにえの動物を共に食した体験から
来ているのかも知れません。一方、手、特に指先から手首までは、
体の中でもっとも活動的な部分です。ということは、最も汚れに染
みやすい部分です。それで、食事の前には念入りに手を洗え、とい
うわけです。念入りに(3節)と訳されていますが、原文をそのまま訳
すと、握りこぶしで手を洗え、です。これは、片方の手の握りこぶ
しで、もう一方の手のひらをこするようにして洗うとの意ともとれ
ますが、どうやらそうではなく、握りこぶしで手を洗う水の量を量っ
たようです。また、汚れは「移動」と言いますが、伝染すると考え
られました。手が触れた対象そのものは汚れていなくとも、どこか
から汚れを持ってきているかも知れません。それで、市場で多くの
人や物に触れた後は、手を更に念入りに洗ったのです。「身を洗う」
と訳されていますが、原文では「洗い流す」と書かれていた可能性
が高いのです。
 その他、食前の手洗いとは直接の関係はなさそうですが、杯、鉢、
銅の器や寝台までもが、一般人が儀礼的な意味合いで洗浄しなけれ
ばならないものと定められていたようです。ただ、残念ながら詳細
は不明です。
 ともかく、食前に手を洗うことなど、ファリサイ派に口伝律法と
して定められ、ユダヤ人は皆(3節)というのですから、実際にもこの
掟は広く守られていたのではないでしょうか。なのに、イエスの教
えを忠実に受け継いできた弟子たちが、うっかりしたとかそういう
不注意ではなく、洗浄の儀式をしないで食事をしている、イエスも
それを咎めようともしない。それで、ファリサイ派の人々と律法学
者とが、「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩
まず、汚れた手で食事をするのですか。」と尋ねたわけです。糾弾
というよりは、「問い合わせ」かも知れません。
 なぜ、イエスは、その内容自体は煩雑ではあっても、悪いことで
はない口伝律法を弟子たちに守らせようとしないのでしょうか。

 6-8節「イエスは言われた。『イザヤはあなたたちのような偽善者
のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。「この民は
口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人
間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。」
あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。』」

 偽善者と訳されている語は、ギリシア語でヒュポクリトスと言い、
もともと俳優の意味です。演じてはいますが、それはその人の本当
の姿ではありません。心ではありません。口伝律法なるものを作り
出し、それを守って見せても、その心が変わらなければ、神の前に
清くなることはできません。イエスは、イザヤ書29:13の引用をもっ
て、ファリサイ派の努力の空しいことを宣言されました。

(この項、続く)


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