2010年11月21日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第40回「マルコによる福音書6章53〜56節」
(10/03/21)(その2)
(前号から続く)
3:7以下は、イエスのガリラヤでの宣教活動も中期に入ったころの
まとめです。神の国が「来た」というメッセージは浸透してきたか
も知れません。しかし、神の国とはどういうものなのか、イエスは
たとえをもって、説教をもって直接民衆に語りかけられたのです。
3:7-12は、すなわちイエスの第二段階の宣教活動のまとめです。
第一のまとめ(マルコ1:35-39)、第二のまとめを見てきた目で、こ
の第三のまとめを見ていきますと、そこに宣教活動の記録がないこ
とに気づきます。これは極めて異常です。そもそものきっかけは、
ベトサイダ行きを断念せざるを得なかったこととは言え、イエスは、
一体何のために弟子たちを連れてゲネサレト平原へ上陸されたので
しょうか。
ある人は、イエスが十二人を休ませたかったからである、という
説を主張します。31節で、宣教活動から帰って来た十二人を、イエ
スは「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休
むがよい」とねぎらわれました。その「人里離れた所へ行って休む」
ことがまだ実現していないから、ゲネサレト平原に上陸された、と
いうのです。しかし、「人里離れた所」と訳されている語の原語は、
イエスが修行された「荒れ野」の意です。一人になって神と対峙す
る所の意です。五千人の群衆がついて来てしまいましたが、彼らは
確かに人里離れた所、荒れ野へ行きました(32節)。そして、そこで、
思いもかけず、十二人も大群衆と一緒に、神の国の食事に与ってし
まいました。彼らの休暇は、十分におつりが来るくらいに全うされ
たのではないでしょうか。
そうではなく、イエス一行がゲネサレトへ来られたのは、イエス
の宣教活動が、神の国の教会の建設の段階に入ったことと大いに係
わりがあります。神の国の教会建設に乗り出されたイエスは、これ
まで以上に、神の国の建設のための救いの成就、十字架への道行き
を早められることとなりました。もちろんイエスは、「神の国は近
づいた」と宣言されて宣教を開始されたその時から、十字架を凝視
しつつ歩んで来られました。が、この段階になると、何はさておい
ても十字架の準備です。そして宣教活動は停止されたのです。ゲネ
サレトでは、イエスは宣教活動をなさらないおつもりでいらっしゃ
いました。
第二に、それにもかかわらず、イエスがエルサレムへ上られる前
に、神の国の宣教がなされねばならない地域が残っていました。そ
こには、早急に神の国の到来が告げ知らされねばなりません。その
一つがティルス地方(7:24以下)です。ガリラヤの北の異邦人が住む
地域です。北方の異邦人にも「神の国の到来」は告げ知らされねば
なりません。それで、イエスはティルス地方へ行くことを決心され
ました。ゆえに、ゲネサレト平原へ上陸されたのです。ゲネサレト
地方は、ガリラヤからティルス地方へ行くための通過点です。そし
て、ここでは、宣教されないのです。
そもそもイエスが大きなみ業をなそうとされる時、そのお姿は隠
されます。神のみ子がへりくだられて人となられた時もそうでした。
そのお姿は人と異ならず(フィリピの信徒への手紙2:1以下)、ナザレ
にて「ただの人」として過ごされました。そして、イエスがそのご
使命達成のため十字架に架かろうとされる時、イエスのご栄光のお
姿はますます隠されます。十字架のお姿は、すべての人の罪を一身
に背負われた人として、もっとも惨めな、みすぼらしいお姿であら
れたからです。人が見向きもしない、唾を吐きかけられる(マルコ
15:19)くらいのお姿でした。神の国の宣教のためには、あえてご自
身のご栄光のお姿を見せられたイエスですが、十字架に向かわれる
イエスは、ここでは、ゲネサレトでは、そのご栄光のお姿を隠され
て通り過ぎようとされます。弟子たちはこの時どうしていたのでしょ
うか。神の国の教会建設が始まったこの時、イエスに替わって自分
たちが宣教活動に励まねばならないのに、弟子たちについては、こ
こでは全く記述がありません。ということは、何にもしていなかっ
たのではないでしょうか。弟子たちは、イエスと違って何の使命も
自覚せず、イエスの後をただお気楽についていっただけだったのか
もしれません。
もしもこの瞬間だけ切り取ると、神のみ業が見えないように思わ
れるかもしれません。
ところが、ここで、突然名もない人が登場して、神のみ業の成就
のための手助けをするのです。「人々」です。イエスとも、十二人
とも直接の係わりを持たない人々が現れてきて、イエスがいらっ
しゃったと知ると、その地方を隈なく走り回り、イエスがおられる
ところへ、病人や、救いを必要としている人を運び込んだのです。
主のみ業が完成されようとしている時、同時に、主のみ業が隠され
ている時、この時も神は確かに働いていてくださいます。「一般人」
を立ち上がらせ、奮い立たせて、宣教の実を実らせてくださったの
です。
(この項、続く)
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