2010年11月14日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第39回「マルコによる福音書6章45〜52節」
(10/03/14)(その3)
(前号より続く)

 恐れる弟子たちに、イエスはやさしく声をかけられます。モーセ
が神に出会った時(出エジプト記3章)と同じです。モーセはエジプト
から逃げていた時に神と出会いました。モーセは神を見ることを恐
れて顔を覆いました(出エジプト記3:6)。が、神は「わたしはある」
という者だ(出エジプト記3:14)と名乗られ、モーセに出エジプトの
リーダーとしての務め、使命を与えられたのです。イエスはここで、
「わたしだ」と言われてご自身を名乗られました。「わたしはある」
と「わたしだ」は、全く同じで、旧新約聖書全体を通して神がご自
身を名乗られる時の名乗られ方です。そして、「恐れることはない」
という慰めの言葉をもって、弟子たちに「安心しなさい」との言葉
を与え、十二人としての使命を確認されました。「安心しなさい」
とは、「自信を持ちなさい」という意味です。

 51〜52節「イエスが舟に乗りこまれると、風は静まり、弟子たち
は心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっ
ていたからである。」

 弟子たちは一体何に驚いたのでしょうか。奇跡、イエスが湖の上
を歩かれたこと、嵐が静まったことの不思議さに驚いたのでしょう
か。私たちがそのように受け取ると、私たちは51節、52節を理解で
きません。イエスが奇跡を行う力があることは、すでに五千人の供
食でも示されていて、弟子たちが改めて驚くことではないからです。
 そうではなく、弟子たちは、このようにダメな自分たちにも、神
なるイエスによって、改めて召しが、使命が確認されたことに驚い
たのです。この使命は五千人の供食の時にも確認されたはずでした。
しかし、あの時、きちんと受け取っていなかった彼らにとって、今
回の神なるイエスとの出会いは、目の覚めるような出来事だったの
です。
 私たちは聖餐に与る主の食卓の正式のメンバーとされている者と
して、主のご使命にきちんと生きているでしょうか。いい加減にし
か受け止めていなかったり、怠慢によって中断してしまっていたり
してはいないでしょうか。私たちもはっと驚かされて、目を覚まさ
れて、使命に仕えて歩んでまいりましょう。

(この項、終わり)


第40回「マルコによる福音書6章53〜56節」
(10/03/21)(その1)

 本日のテキストは、短いところで、しばしば読み飛ばされてしま
うところですが、実はマルコによる福音書全体の中で大変に重要な
ところです。
 神の国の新しい教会の建設を志されたイエスは、まだ行かれたこ
とのないベトサイダでの宣教を志されました。しかしながら、ベト
サイダ伝道は、舟の行く手を阻んだ風と、そして弟子たちの怠慢と
により、その地に到着することができず、断念せざるを得ませんで
した。そこで、イエスと弟子たちとが向かったところが、ベトサイ
ダとは真逆の方向、カファルナウムの西に広がるゲネサレト平原で
した。

 53節「こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着い
て舟をつないだ。」

 ゲネサレトとは、長さ4.8km、巾1.6kmほどの、カファルナウムの
西に隣接する、肥沃な平原の名称です。ゲネサレトという名の町や
村があったと考える人もいますが、その証拠はありません。「ゲネ
サレトという土地に着いて舟をつないだ。」と訳されているように、
ゲネサレト平原のどこかに上陸されたのでしょう。

 54〜55節「一行が舟から上がると、すぐに人々がイエスだと知っ
て、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞
けば、そこへ病人を床へ乗せて運び始めた。」

 この記事は、一見したところ、マルコ1:35-39、及び3:7以下の記
事と大変よく似ています。しかし、よく読んでみると、他の二箇所
と著しい違いがあることに気づきます。それは、イエスが宣教され
た、ないしは教えられたという記録がないことです。1:35-39におい
ては、確かにイエスが宣教されたことが記録されています(1:39)。
イエスは初期の宣教活動において、積極的に宣教されました。それ
は、イエスが「神の国の到来」を大いに告げ知らせようとされたか
らです。それゆえ、この宣教は主として、神の国の到来を待ち望ん
で来た人の集まるところ、すなわち会堂で、神の国の到来のしるし
である悪霊祓いとセットで行われました。
 3:7以下においては、一見すると、宣教の記録がないように見える
かもしれません。しかしながら、3:9に「そこで、イエスは弟子たち
に小舟を用意しておいてほしいと言われた。」と記されています。
この舟は当面は押し寄せる群衆にイエスが押しつぶされないための
措置でした(3:9)。しかし、4:1以下を見ると、イエスは、この舟を
いわば「説教壇」として、岸辺にいる群衆に教えるために用意させ
られたことが分かります。イエスはそうやって、「種を蒔く人のた
とえ」をはじめとする多くのたとえを語られました。ここに「宣教
された」という文字はありませんが、実は宣教をされたことが記録
されています。

(この項、続く)


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