2010年11月07日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第39回「マルコによる福音書6章45〜52節」
(10/03/14)(その2)
(前号より続く)
聖書においても、山は聖別された場所でした。そこに入ることを
許された者は、そこで「聖なる神」と出会い、清くされるのです。
モーセは主に呼ばれてシナイ山へ登り、十戒を授かりました。そし
て、彼が山から下りてきた時、その顔は光輝いていたのです。モー
セの後、 幕屋を経て、エルサレムに神殿が建設されると、神殿、特
に至聖所が聖別された場所として山の役割を果たすこととなりまし
た。ヘブライ人への手紙9章によれば、そこには大祭司が年に一度だ
け贖いの供え物を持って入ることが許されており、そこで犠牲が献
げられることにより、人は、清く聖なる者とされるのでした。
新約聖書の時代に入って山は再び聖別された場所として位置づけ
られることとなりました。イエスは、山に登られることによって、
ご自身の神性を顕かにされました。そして、3:13以下では、十二人
も山で終末の時の新しい十二部族の長という聖なる務めに任じられ
ました。山は、イエスが主・イエス・キリストとして栄光を顕され
る場所となったのです。
46節に戻りましょう。まず第一に、イエスが祈るために荒れ野で
なくて山に行かれたことに注目しなければなりません。イエスは修
養のためではなく、ご栄光を顕されるために出て行かれたのです。
第二に、お一人だけで行かれたことです。3:13以下では、十二人を
終末の業に召すために、山に登られてご栄光を顕されました。今回
は、イエスご自身がご自身に栄光を顕すために山に登られるのです。
イエスは神の国の教会の建設に着手されました。ということは、イ
エスが真の栄光を顕される時、すなわち十字架と復活の時が近づい
たということです。この時、イエスはお一人で山に登られて、そこ
でご自身にご自身の十字架と復活の様が示されたのです。
47〜48節後半「夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イ
エスだけは陸地におられた。ところが、逆風のために弟子たちがこ
ぎ悩んでいるのを見て、」
一方、弟子たちの方は、ベトサイダ方面へ舟で向かっていました
が、逆風のためこぎ悩んでいました。が、そもそもベトサイダ方面
へ船で行くという仕事は、困難な仕事だったのでしょうか。そうで
はありません。ただ、目的地に向かってこいで行けばよい、という
漁師たちにとっては容易な仕事でした。逆風がきつかったのでしょ
うか。ここで私たちは、この物語と4:35以下の「突風を静める」物
語とを混同する間違いから解放されねばなりません。「突風を静め
る」物語で舟に乗ったイエスや弟子たちが遭遇したのは、弟子たち
がおぼれる恐怖を抱いたほどの大嵐でした。ところが、この物語で
弟子たちが遭遇したのは、ただの風です。嵐と違って、対応できな
いほどのものではないはずです。なのに、真昼間に出港した船が夕
方になってもまだ湖の真ん中、夜明け(原文では夜中の3時から夜明
けまでの時間帯を指す語が使われています)になってもそのままで、
目的地に到着できないというのは、明らかに弟子たちの怠慢なので
はないでしょうか。目的意識の欠如、根本的には、使命感の欠如で
す。つまり、自分たちが神の国の教会の建設のために召されている
ことが分かっていないのです。
しかし、そのような弟子たちではあっても、イエスは「十二人」
として用いられることを決してあきらめようとはされません。
48節後半〜50節「夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのと
ころへ行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちはイエスが湖
上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆は
イエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し
始めて、『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない』と言われ
た。」
弟子たちがイエスから与えられた務めは、単なる人と人との間で
結ばれる契約ではありません。神からの召命です。そのことを示す
ために、イエスは自らがご自身に示された栄光のお姿でもって、弟
子たちの前に姿を顕されることとなりました。旧約聖書の時代、神
が自らを示されたそのように、イエスは神として弟子たちに顕れら
れるのです。まず、イエスは湖の上を歩かれます。旧約聖書ヨブ記
9:8に「神は自ら天を広げ、海の荒波を踏み砕かれる」とあるごとく、
イエスは湖の上を歩いて自らを顕されます。19節の、これを見ての
弟子たちの反応は、まるでよみがえりのイエスに出会ったかのよう
です(ルカ24:37)。弟子たちは湖上を歩く神としてのイエスを見て、
幽霊、もっと正確に訳すと幻影(ファンタジー)だと思いました。そ
こに、真実、神としてのイエスがおられるとは思えないのです。し
かし、もし本当だとしたら、人間には見ることを許されていない方
を見てしまったことになるのですから、おびえたのです。幽霊を怖
がったわけではありません。
(次号に続く)
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