2010年10月31日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第38回「マルコによる福音書6章30〜44節」
(10/03/07)(その3)
(前号より続く)
イエスは、弟子たちの不信仰にもかかわらず、人々を神の国の食
事に招くことをあきらめられません。弟子たちが集めたわずかのも
のしかなくとも、です。その五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰
いで賛美の祈りを唱えられました。「賛美の祈りを唱え」は「聖別
し」とも訳せます。パンを「天からのパン(出エジプト記16:3)」に
変え、パンを粉々に砕いて弟子たちに与えました。弟子たちは、そ
れぞれ自分の分担の組に分けました。すなわち、弟子たちを、もう
一度「十二人」として教会に仕える働きに立たせたのです。「すべ
ての人が食べて満腹した」とは、十二人がその使命を十分に果たし
たことを指し示しています。とは言え、十二人の働き、教会の働き
はまだ始まったばかりでした。
43-44節「そして、パンの屑と魚の残りを集めると十二の籠にいっ
ぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。」
十二の籠は、明らかに十二人一人一人の籠です。十二人が教会に
招かれた人々に与えるべき食べ物がまだこれだけ残されている、十
二人の使命遂行はまだまだこれからだ、ということです。また、五
千人という人数は多いようですが、終末における新しい十二部族の
総数144,000人にははるかに及びません。また、女性にはまだパンが
配られていません。十二人の使命はまだまだこれからです.荒れ野
においてその一歩を築いた教会も、教会の先駆けではあっても、ま
だ完成ではないのです。その完成は、イエス・キリストの十字架に
よる罪の贖いの成就まで待たねばなりません。従って、主イエスは
失われた羊を招いていてはくださいますが、ここでなされた食事は
聖餐ではない、そのことだけ最後に確認しておきましょう。
(この項、終わり)
第39回「マルコによる福音書6章45〜52節」
(10/03/14)(その1)
45節「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こ
う岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させ
られた。」
イエスはユダヤ教の会堂での宣教活動を断念され、神の国の教会
の建設を意図されました。その準備として、十二人を派遣し、更に
五千人を主の食卓へと招かれました。
が、招かれた人々をイエスは解散させられました。主の食卓、そ
して主の教会の正式メンバーとして招かれたのであれば、この人た
ちは、これから派遣されていくのが筋でしょう。しかし、この人々
が与った食卓は、主の食卓の先駆けではあっても、神の国の正式の
食卓ではありませんでした。罪ある人間が神の国の食卓の正式メン
バーとされるためには、どうしても罪の贖いが必要です。主イエス・
キリストが十字架に架かって死なれ、人類の罪の贖いを完成してく
ださり、しかも私たちが、主イエス・キリストの十字架と共に古い
自分に死んで、新しい自分に生きることによって初めて、私たちは
神の国の正式の食卓、聖餐に与らせていただくことができるのです。
それゆえ、まだ十字架の贖いに与っていないこの人々は、その時が
来た時、進んで主イエス・キリストの十字架による罪の贖いに与り、
神の国の食卓の正式メンバーとなることが求められ、期待されるの
であって、まだ、この人々は正式メンバーではないのです。それゆ
え、イエスは人々を派遣されるのではなく、解散させられるのです。
ちなみに、私たちの教会の礼拝においては、礼拝の最後において、
私たちは解散させられるのではなくて、派遣されます。主イエス・
キリストの十字架による罪の贖いの業はすでに完成されており、私
たちは、洗礼により、十字架により、古い自分に死んで新しい自分
に生きており、そして神の国の正式の食卓である聖餐に与っている
からです。私たちは、もはや五千人の群衆ではありません。聖餐に
与る神の国の食卓の正式メンバーです。ですから、私たちは、神の
国の宣教のために派遣されて行くのです。
が、まだ時が成就していないこの時点では、イエスは神の国の教
会建設の準備、すなわち、広く宣教活動をすることに全力投球せね
ばなりません。それゆえ、イエスはまだ宣教活動のなされていない
ベトサイダ方面での宣教を志され、弟子たちを舟に乗せて先行させ
ました。弟子たちはその使命を十分に自覚していたでしょうか。こ
こで、マルコが彼らを「十二人」と呼ばずに「弟子たち」と呼んでい
ることから明らかなとおり、彼らに十分な使命の自覚があったとは
思えません。この弟子たちの「使命感の足りなさ」から事件が起こ
ることとなります。
46節「群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。」
46節の主語はイエスです。イエスは群衆を解散させられた後、弟
子たちと別れて(原文は「彼らと別れて」ですが、この「彼ら」を「弟
子たち」と採った方がよいと考えられます)、祈るために山に行かれ
ました
聖書における「山」の意味については、3:13以降の講解で触れま
した。日本の宗教においては山そのものがご神体です。それゆえ、
山へ入る者は「聖なる者」となって帰ってくる、と考えられていま
す。
(この項。続く)
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