2010年09月12日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第35回「マルコによる福音書6章1〜6a節」
(10/02/07)(その3)
(前号より続く)
「つまづき」と訳されている語は、ギリシア語で「スカンダロン」
、動詞にすると「スカンダリゾー(つまづかせる)」という語です。
「スキャンダル」という語の語源となる語です。もともとは、「の
せる」とか「はねかえらせる」という意味のラテン語の言葉に由来
する言葉のようですが、そのうち「わなにかける」、名詞で言えば
「わな」そのものを意味する語となりました。
旧約聖書のギリシア語訳聖書(七十人訳聖書)で、この語は多用さ
れています。詩編124編7節やヨブ記40章24節では文字通り「わな」
の意味で用いられています。しかし、七十人訳聖書では、「不幸の
理由」とか、「破滅の原因」といった精神的な意味でのわなにもこ
の語が用いられるようになってきました。出エジプト記10章7節では、
モーセがエジプトにとって「陥れるわな」、すなわちスカンダルで
あると言われています。そして、詩編119編165節やエレミヤ書6章21
節に見られるごとく、信仰を妨げるもの、つまづきを指す言葉とし
て用いられるようになったのです。
新約聖書において「つまづき」の意味はさらに深められていきま
した。一方では、人を不信仰に至らせるような軽率な言動が「つま
づき」として戒められています(マルコ9:42)。が、もう一方では、
イエスご自身が、人を不信仰に陥らせるつまづきとなられるのです。
人を信仰へと導かれるはずのイエスご自身がつまづきとなられると
はどういうことでしょうか。実は、このつまづきはイエスの十字架
においてもっとも強く働き、弟子たちさえもつまづいてしまいまし
た(14:27)。「私だけは大丈夫です」と言い切ったペトロもつまづい
てしまいました。なぜでしょうか。それは、いと高き神の子であら
れるイエスが、人の子となられたに止まらず、十字架刑の極みにま
でへりくだられるということを、弟子たちでさえ、信じられなかっ
たからです。神の恵みのあまりの大きさが、かえって不信仰を引き
起こすという「逆説」を引き起こしたのです。
故郷の人々はここで十字架のイエスに出会ったわけではありませ
ん。しかし、大工として、マリアの息子として、ヤコブ、ヨセ、ユ
ダ、シモンの兄弟として、今自分たちと共に住む姉妹たちの兄とし
て、つまり自分たちの仲間にまでへりくだられたイエスを、神の子
として信ずることができなかったのです。この故郷の人々の不信仰
を論評し、批判するのは容易なことです。しかし私たちがもし故郷
の人々だったとしたら、イエスを信じることができたでしょうか。
やはりつまづいてしまったのではないでしょうか。
4節「イエスは『預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や
家族の間だけである』と言われた。」
イエスの時代、大変有名だった格言ですが、古の預言者たちは、
自分の故郷、親族、家を捨てて、敬われる可能性のあるところを出
かけて行って預言したのか、というとそうではありませんでした。
敬われないとわかっている自分の郷里、親族、家へ戻って、預言し、
あえてつまづきの石となってきたのです。そもそもモーセがそうで
した。郷里エジプトで大失敗をしでかし、ミディアンの地に赴いて
いた時、神によってエジプトすなわち郷里へ引き戻され、人々とぶ
つかり合いながら、出エジフトを達成するのです。
古の預言者たちと同じく、この格言はイエスご自身が郷里から逃
げることを正当化する言葉ではありません。むしろ、郷里において
ご自身がはじめて実際につまづきの石となられて、そしてそれゆえ
にこそ、人々に罪を深く自覚させ、悔い改めと真の救いに至る道を
指し示す、より深まった宣教の第一歩を刻まれるお言葉だったので
す。
5節「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけ
で、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そし
て、人々の不信仰に驚かれた。」
すさまじいまでの不信仰の極みです。しかし、「私は信じている。
大丈夫だ。」と勝手に思い込んでいるところに救いはありません。
イエスにつまづき、実は空っぽでしかない自分が暴露された時、そ
のことに気づいて「神様、不信仰な私をお赦しください。」と祈る
ならば、そこに真の救いがあるのです。一見、不幸な出会いに思え
るかもしれませんが、実は、故郷の人々はイエスともっとも深いと
ころで出会う人の最初ともなったのです。
(この項、終わり)
第36回「マルコによる福音書6章6b〜13節」
(10/02/14)(その1)
6節b「それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。」
マルコによる福音書によれば、イエスの宣教活動は、ナザレの会
堂での宣教をもって新しい段階を迎えました。従来のユダヤ教の枠
でイエスを捉えることがもはや不可能となり、イエスは、会堂での
宣教をおやめになられるのです。ここからイエスは、新しい教会形
成に向けての宣教活動を開始されることとなります。今日はその宣
教活動の第一弾として、イエスが「十二人」を宣教に派遣された物
語を学んでいきます。
(この項、続く)
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