2010年09月05日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第35回「マルコによる福音書6章1〜6a節」
(10/02/07)(その2)
(前号より続く)

 新共同訳聖書では「お帰りになった」と意訳していますが、原文
では「行った」です。イエスが家族に会うためにナザレへ行かれた
のであれば、新共同訳の訳は正しいのですが、6:1-6を見る限り、
イエスが家族と会われた様子はありません。イエスは家族と会うた
めにナザレへお帰りになったのではなく、別の目的で故郷へ行かれ
たのではないでしょうか。ここは、協会訳のように「行かれた」と
訳した方がよいように思われます。では、別の目的とは何でしょう
か。
 「弟子たちも従った」という記述も、イエスの故郷訪問がプライ
ベートのものではなかったことを示しています。「弟子たち」とは、
この時点では「十二人」を含む弟子グループのことです(3:34、4:10)。
イエスの「弟子グループ」を伴っての活動は「公的活動」でした。
結局、イエスが故郷へ行かれたのは宣教活動のためでした。そして、
イエスは新たな課題と取り組まれることとなりました。

 2節「安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。」
故郷での宣教活動も、カファルナウムの場合と同じく(1:21〜)、安
息日に会堂で教えられるところから始まりました。ナザレの町は現
在もエン・ナシーラという名で現存しています。復元された古代の
会堂の遺跡はありませんが、イエスの時代に会堂があったところに
現在はギリシア正教の教会が建っています。そのかつてあった会堂
での出来事です。イエスはそこの会堂長の要請で説教を行いました。
どのような説教をされたのでしょうか。ルカによる福音書は、イエ
スの故郷宣教をイエスの宣教活動の最初に位置づけた上で、イザヤ
書62:1〜2をテキストにした説教であった、と報告しています(ルカ
4:10以下)。ルカによる福音書によれば、イエスはこの説教をもっ
て、自分こそ旧約聖書に預言された、神から遣わされたメシアであ
ることを宣言されました。ところが、会堂内の人々は、この宣言に
憤慨し、イエスを町の外に追い出し、町が立っている山の崖にまで
連れて行って、突き落とそうとした、ということです。イエスの説
教が敵意を呼び覚ましたのです。
 一方、マルコによる福音書は、この時のイエスの説教テキスト、
説教内容を一切伝えておりません。しかし、説教を聞いた人々の反
応を見ると、ルカによる福音書の場合とは全く異なっており、ルカ
による福音書の伝える説教とは別物であったことがわかるのです。
 
2節後半「多くの人々は、これを聞いて、驚いて言った。『この人は
このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、
その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。』」
 多くの人々はイエスの説教を聞いて驚きました。1:22でカファル
ナウムの会堂でイエスが説教をされた時、人々が示した反応と全く
同じです。用語も一緒です。すなわち人々は、イエスの説教の「す
ばらしさ」に驚いたのです。1:22によれば、人々がイエスの説教に
驚いたのは、「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教
えになった」からです。イエスは人の子としてこの世に生まれられ
たのでして、神の子としてのご栄光のお姿は隠されました。しかし
ながら、一度教えられると、そのご栄光のお姿が顕れてしまうので
す。人々はそのすばらしさを感じとり驚くのです。そしてイエスの
説教に対する「よい」評判が、カファルナウムからガリラヤ地方の
隅々にまで広がっていったのです。イエスの故郷での説教も「よい」
評判を得る説教でした。人々は、カファルナウムの場合と同じよう
に、いやカファルナウムの場合以上に、イエスの説教の背後に神の
権威と力があることを察知したのです。2節後半の人々の言葉を敵意
によるものと捉え、「イエスの権威と力が悪魔的なものから来てい
るのではないかという疑いの言葉」と受け取ることは誤解です。
「この人はこのことをどこから得たのだろう」は疑問のかたちをとっ
てはいますが、実は「このようなすばらしい説教は神の権威をもっ
てなされなければできない」という意味の称賛の言葉です。「この
人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡」は、この
すばらしい説教が神の知恵と力とによってなされたという認識を示
しています。イエスはここで奇跡を行ってはいません。しかし、そ
のすばらしい説教が、神の知恵だけでなく、神のみ手によってなさ
れる力ある業の表現でもあると、まるで詩編の詩人のように、人々
は絶対の賛美を口にしているのです。故郷の人々は、素直に、驚く
ほど素直に心を開きました。しかし、です。

 3節「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨ
セ、ユダ、シモンの兄弟ではないか、姉妹たちは、ここで我々と一
緒に住んでいるではないか。」この用に人々はイエスにつまづいた。」
 故郷の人々が敵意ある人々でないことは確認できました。その点、
ファリサイ派の影響を強く受け、イエスの力ある業を、悪霊の頭ベ
ルゼブルの力によるとする悪いうわさを立てたファリサイ派に同調
し、イエスを取り押さえに来た、イエスの「身内の者(3:20)」と故
郷の人々とは対照的です。しかし、故郷の人々は「つまづき」によっ
てイエスを信じることのできない人々の最初となってしまいました。

(続く)



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