2010年08月29日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第34回「マルコによる福音書5章35〜43節」
(10/01/31)(その3)
(前回より続く)
40-41節「人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に
出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所に入っ
て行かれた。そして、子供の手を取って、『タリタ、クム』と言わ
れた。これは『少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい』とい
う意味である。」
人々はイエスを「あざ笑い」ました。あざ笑うと訳されている語
は原語でも強い表現で、しかも乱暴な言葉です。神を信じていない
人々にとっては、イエスの言葉は全く受け入れられません。カファ
ルナウムの人々は実は不信仰だったのです。イエスは不信仰な人々
を外に出しました。この「外に出す」と訳されている語も「追放す
る」という非常に強い意味を持った語です。不信仰の下ではみ業は
示されえないからです。イエスは、子供の両親と三人の弟子だけ、
つまり信ずる者だけを連れて、子供のいる所、おそらく子供の遺体
の安置されているところへ入って行かれました。
実は旧約聖書にも二つの蘇生物語があります。預言者エリシャが
シュネムの一人の裕福な夫人の息子を生き返らせた物語です。この
場合、預言者は死んだ子供を連れて部屋に閉じこもり、二人だけに
なって神に祈りました。預言者自身がへりくだり、神の力をいただ
く必要があったからです。ここでは、イエスご自身が人を生き返ら
せる力をお示しになられ、へりくだる者たちにその力をお示しにな
られました。イエスは少女の手を取り、少女に向かって「タリタ、
クム」と言われました。この言葉は、イエスご自身が語られたアラ
ム語の言葉を正確に音写しています。その意味は翻訳のとおりです。
救い主の使命の第三の働きは、眠っている者を起こすことです。言
い換えると、よみがえりの希望を与えることです。
42-43節「少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳に
なっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘
れた。イエスはこのことをだれにも知らせないように厳しく命じ、
また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。」
度々講解説教で触れてきたように、「起き上がる」とか「立つ」
という言葉は、復活を指し示していると考えられます(3:3など)。と
は言え、今までは、復活がほのめかされるだけでした。が、ここで
は本当に少女が生き返ることによって、復活そのものと見紛うばか
りの出来事が起こったのです。しかし、それでもヤイロの娘の生き
返りは復活ではありません。本当の復活は、イエスご自身が死んで
陰府に降られ、よみがえられるその時以降です。が、この出来事(ヤ
イロの娘生き返り)によって、イエスが復活の主であり、私たちには、
死んでもよみがえる希望が与えられていることが確認されたのです。
イエスを信ずるとは、復活の主を信ずることであり、私たちのよみ
がえりを信ずることでもあります。
「それを見るや(42節)」は原文にはありませんが、適切な挿入で
す。不信仰者は結果だけ見て、それでも我を忘れて恍惚状態になる
くらい驚きました。しかし、不信仰者にほめたたえられても、神の
み業の前進には何の役にも立ちません。それで、イエスはここで、
無理を承知で沈黙命令を出されます。信仰者には、いつも本質を見
ることが求められます。私たちはどうでしょうか。「食べ物を少女
に与えるように言われた」との締めくくりの記事は、イエスのみ業
が、少女の救いのため、つまり死というものに打ちのめされている
私たちの救いのためのものであったことを高らかに宣言しています。
(この項、終わり)
第35回「マルコによる福音書6章1〜6a節」
(10/02/07)(その1)
イエスはガリラヤ中の会堂に行き、宣教し(1:39)と記されてはい
ますが、今までのところ、ガリラヤでは、カファルナウムでの宣教
記録しか残されてはいません。が、ここで初めてカファルナウム以
外のガリラヤの地での宣教記録が記されることとなりました。それ
は、故郷での宣教活動でした。
1節「イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも
従った。」
「そこ」とは、会堂長ヤイロの娘を生き返られた場所、カファル
ナウムです。カファルナウムを去って行かれた「故郷」とはどこで
しょうか。「故郷」と訳されている語は、「父の土地」という意味
の語です。マタイによる福音書2:1、ルカによる福音書2章によれば、
イエスは父祖の地であるダビデの町ベツレヘムで生まれられました。
が、マルコによる福音書においては、イエスはナザレ出身(1:8,24)
とだけ記されています。よって、ここで「故郷」と記されている町
はベツレヘムではなくてナザレです。ナザレは、カファルナウムと
同じくガリラヤ地方にある町ですが、カファルナウムからは直線距
離にして35km弱、徒歩で一日で行くにしては厳しい所にあります。
この遠い道程を旅されたということは、イエスがはっきりとした目
的をもってナザレに行かれた、ということを顕しています。家族に
会うためでしょうか。
(この項、続く)
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