2010年08月22日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第34回「マルコによる福音書5章35〜43節」
(10/01/31)(その2)
(前号より続く)

 「そばで聞く」と訳されている語には、「たまたま聞く」という
意味と、「聞いて無視する」という意味との二つの意味があって、
しかもその二つの意味が同じ頻度で用いられています。マルコがこ
こでどちらの意味でこの語を使ったのか、本当のところは不明です。
しかし、意図的にせよ無意図的にせよ、イエスが聞かれたことを無
視して次の行動に出られたことは確かです。
 イエスを信ずるヤイロの愛する娘は、イエスにとっても愛する娘
です。愛する娘の死に際して、イエスは救い主としての使命を全う
されることを決断されます。その使命に伴う仕事の第一は、その娘
とイエスとの関係、この場合で言えば、ヤイロの信仰を確認するこ
とです。
 ところで、「恐れることはない」は、聖書では一般的には神顕現
の言葉です。すなわち、神がお顕れになられる時、恐れる人間に投
げかけられる慰めの言葉です。たとえば、マリアに天使が現れ、受
胎告知がなされた時、天使がマリアにこの言葉を発しました。しか
し、今ここでは、イエスはまだご栄光をお顕しになっておられない
のですから、この「恐れることはない」は神顕現の言葉ではありませ
ん。娘の死の報を受け、その事実に恐れおののいているヤイロに向
けられた慰めの言葉です。ヤイロは、イエスの説教を会堂で聞き、
み業を目の当たりにしながら、中途半端な信仰に止まっていました。
しかし、娘が死にそうになったとの事態に直面し、それまでの態度、
罪を悔い、イエスを礼拝し、神の助けに全面的に依りすがりました。
今、娘の死というより一層厳しい事態を迎えたわけですが、だから
こそ、尚更神に依りすがりなさい、という勧めの言葉をイエスは投
げかけられたのです。
 ヤイロはこのイエスの言葉を受け入れたのでしょうか。マルコは
沈黙していますが、受け入れたに違いありません。なぜなら、信仰
のないところには、神のみ業が示される余地は全くないからであり
ます。こうして、イエスとこの娘との関係は確かなものとされまし
た。

 37-39節「そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほ
かは、だれもついてくることをお許しにならなかった。一行は会堂
長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるの
を見て、家の中に入り、人々に言われた。『なぜ、泣き騒ぐのか。
子供は死んだのではない。眠っているのだ。』」
 前にも触れたとおり、十二弟子の中でも、ペトロ、ヤコブ、ヨハ
ネの三人、ある場合にはアンデレを加えた四人は特別の役割を与え
られています。ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけが、山上の変貌
(9:2以下)、ゲッセマネの祈り(14:33以下)の場面で、イエスに同道
しました。彼らは神の子としてのイエスの証人です。さらに、オリ
ブ山でイエスが終末について語られた時(13:3以下)には、この三人
に加え、アンデレも同道しました。アンデレもこの三人に準ずる証
人としての役割を与えられています。ここでイエスがペトロ、ヤコ
ブ、ヨハネの三人だけを同道されたということは、イエスがご自身
のご栄光を顕される覚悟をもって事に臨まれたということです。
 しかし、み業の前進に一歩踏み出されたイエスに対し、ヤイロの
家はまだ死の悲しみに恐れおののいていました。この「大声で泣き
わめいて騒いでいた人々」ですが、職業的な泣き女であったと考え
る人もいます。当時確かにそういう人がいたようです。しかし、こ
こは葬儀の場面ではありません。むしろ、家人や近隣の人が、悲し
みのあまり狂わんばかりであったことが、38節の表現からわかるの
です。
 しかし、イエスはここで救い主としての使命の第二のお仕事に着
手されました。イエスは、家、屋敷の敷地内に入られ、泣き叫ぶ人
々に、「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠ってい
るのだ」と言われました。この「眠っている」は日本語の表現でも
そうであるように、永遠の眠り、すなわち死を指すこともある表現
です。が、ここでは、イエスは明らかにこの娘は自然睡眠の状態に
あると言っているのです。イエスは、この私たちの常識に反する言
葉によって何を言おうとしておられるのでしょうか。まず第一に、
これはイエスの医師としての診断ではない、ということであります。
たとえ、診断の結果、蘇生可能という診断がなされる可能性があっ
たとしても、イエスはまだ娘に会ってもいないのですから、この時
点でイエスが診断結果を言われることはあり得ません。それではこ
の言葉は何なのでしょうか。それは救い主としての言葉なのです。
イエスより少し前の時代、ユダヤ教の尊敬されていた指導者が死者
を前にして次のように言いました。「あなたは眠る。しかし、死な
ない」と。この指導者はその死者を蘇生させたわけではありません。
しかし、彼はここで、「神の目から見て、人の死は何であるか。そ
れは眠りに過ぎない」ということを告げたかったのです。イエスも
そのことを泣き悲しんでいる人々に告げました。救い主としての使
命の第二の仕事は、「神の目から見て、死とは何であるのか」を、
死の悲しみに打ちのめされている人々に伝えることです。

(続く)



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