2010年08月15日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第33回「マルコによる福音書5章24b〜34 節」
(10/01/24)(その3)
(前号より続く)

 29〜32節「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたこ
とを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気
づいて、群衆の中でふりかえり、『わたしの服に触れたのはだれか』
と言われた。そこで弟子たちは言った。『群衆があなたに押し迫っ
ているのがおわかりでしょう。それなのに、「だれがわたしに触れ
たのか」とおっしゃるのですか。』しかし、イエスは触れた者を見
つけようと辺りを見回しておられた。」

 29節で、すばらしい癒し、奇跡的な癒しがなされました。魔術で
しょうか。そうではありません。イエスから出て行ったのは「力」
でした。力(デュナミス)とは、新約聖書においては神の力を指しま
す。イエスから発せられた救いの力でした。この女性はイエスの救
いの力によって癒されました。彼女は、病気が治っただけではなく、
イスラエルの一員としての地位を取り戻したのです。ここで彼女に
起こったことは、そういうことでした。
 医療には料金が求められます。イエスがただの医者だったとした
ら、彼女に料金を請求することとなります。当然、料金請求のため
に彼女を捜すこととなります。弟子たちは、そう解釈したのかもし
れません。だとしたら、その人を見つけるのは無理ですよ、料金請
求はあきらめてください、と弟子たちが答えたこととなります。だ
としたら、なんとも不信仰な弟子たちです。救われた者には、何が
求められるでしょうか。料金ではなく、神の前に出ることです。

 33節「女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震え
ながら進み出てひれ伏し、すべてをありのままに話した。」
 単に癒されただけではなく、救いをいただいた彼女は、その有難
さに恐れおののき、イエスの前に出て、ひれ伏し、すなわち礼拝し
ました。そしてすべてありのままに、自分の罪(ルール違反)を告白
しました。こうして、イエスの救いは彼女自身のものとなったので
す。バプテスマのヨハネは「罪のゆるしを得させるための悔い改め
の洗礼(1:4)」を宣べ伝えました。イエスは「時は満ち、神の国は近
づいた。悔い改めて福音を信じなさい(1:15)」と宣言されて福音宣
教を開始されました。救いのためにはまず第一に神の前に出て、悔
い改めること、罪を告白することが求められます。罪を告白する時、
その重さにくずおれざるを得ないかもしれません。しかし、主はい
ずおれる魂とこそ、共にいてくださるのです。

 34節「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救っ
た。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らし
なさい。』」
 信仰とは、端的に言ってしまえば、罪の自覚です。重い課題です。
しかし、ここに立つ限り、救いは必ずもたらされるのです。イエス
のおっしゃっておられるのはそういうことです。

 どうか、私たちも、この女性と同じように、主のみ前にひれ伏し、
礼拝する生涯を送ることによって、主の平和と癒しをいただき続け
ることができるよう、心して歩んで参りたいものです。

(この項、終わり)


第34回「マルコによる福音書5章35〜43節」
(10/0131)(その1)

 死にそうになっているカファルナウムの会堂長ヤイロの娘を癒す
ために、イエスはヤイロと共にヤイロの家へ向かいました。しかし、
その途中、一行は十二年間も長血に悩む女性と出会うこととなりま
す。イエスはこの女性を救いました。しかし、イエスはヤイロの娘
の癒しには間に合いませんでした。

 35節「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が
来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。もう先生を煩わすには
及ばないでしょう。』」
 「亡くなりました」というその言葉どおり、28節でヤイロが「わ
たしの幼い娘」と呼んでいた「お嬢さん」はすでに死んでしまって、
今や死体の状態にある、もう元には戻らないという報告が、イエス
と一緒にいたヤイロの許に届くのです。「もう先生を煩わすには及
ばない」、先生の原語は「ラビ」、すなわち律法学者のことですが、
ここでは医師であるイエスを指します。もうお医者さんに来てもら
うことはない、ということであります。ただ、今では、人の死に際
し、医師には、死亡診断書を書くという仕事があります。が、当時
はそれは全く必要ではありませんでしたので、死に際して医師のお
仕事はありませんでした。しかし、ただの医師ではない、救い主で
あられるイエスには、まだ、お仕事が残っております。

 36節「イエスはその話をそばで聞いて、『恐れることはない。た
だ信じなさい』と会堂長に言われた。」
 35節の報告は会堂長に対してなされました。当然のことながら、
一緒におられたイエスにも聞こえました。が、イエスは「では、行
くのはやめにしましょう」とは言われなかったのであります。

(続く)



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