2010年08月01日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第32回「マルコによる福音書5章21〜24節」
(10/01/17)(その3)
(前号より続く)

 また、こういうこともありました。3:1以下によりますと、イエス
が礼拝を守るために会堂に入られたところ、片手の萎えた人がいま
した。イエスが安息日律法に違反するかどうかをチェックするため
に、ファリサイ派の人々も詰めていました。イエスは、ご自身が安
息日を超える権威を持っておられることをお示しになられ、その人
を癒されました。ファリサイ派の人々は怒って出て行きましたが、
この出来事を見ていたはずの会堂長であるこの人は、この出来事を
どのように受け止めていたのでしょうか。
 以上、もうすでに会堂長としてイエスの権威に度々ふれたこの人、
イエスの弟子になった訳でもなく、反対者の仲間に身を投じたので
もなさそうなところを見ると、その態度はあいまいであったて考え
られます。イエスに出会う前ならともかく、イエスに出会い、その
権威にふれたならば、人には、信じるか、信じないか、この二つに
一つの選択肢しかありません。「あいまい」は不信仰を隠している
だけです。この人は不信仰を「あいまい」のベールで覆い隠して生
活していたのではないでしょうか。ところが、ある出来事が、この
人の足をイエスの許へと向かわせました。

 23節「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって
手を置いてやってください。そうすれば娘は助かり、生きるでしょ
う。」
 「死にそうです」は直訳すれば、「最期の時である」すなわち、
危篤であるということです。この人をイエスの許へと駆り立てたの
は、「死」の問題でした。「死」の問題は人間がいつかは直面しな
ければならない、そして決して乗り越えることのできない、厳しい
問題です。しかし、この人は信徒とは言え、会堂長として、聖書が
示す「死」についての教えを当然知っていたはずではないでしょう
か。すなわち、人の命は神が与えてくださったものであるからして、
いつかは取られること、しかし、終わりの日が来れば、「多くの者
が地の塵の中の眠りから目覚める(ダニエル書12:21)」ことをです。
 しかし、その「死」の問題が、死一般の話ではなく、自分の、し
かも「わたしの娘」の問題として突きつけられた時、その教えが少
しも肉化していない、不信仰の自分、罪の状態に止まったままであ
る自分と直面せざるを得なかったのです。人は気づかずして傲慢に
陥りますから、追い詰められた時初めて神に目を向けることとなり
がちです。追い詰められた時の罪の自覚がこの人の足をイエスの方
へ向けさせ、この人はイエスの足元にひれ伏し、つまり礼拝せざる
を得なかったのです。
 神は傲慢な者には目もくれられませんが、罪にくずおれる者には、
必ず救いの手を差し伸べてくださいます。

 24節「イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。」
 ヤイロという名は、「私は起こす」という意味だとも言われてい
ます。この後、このヤイロの名にふさわしいような出来事が用意さ
れているのですが、それは、次々回にふれることと致します。
 ともかく、神は、私たちが傲慢な時、調子よく行っている時では
なく、自らの罪にくずおれている時にこそ近くにいてくださること
を覚えて、この一週間、主イエスと共に歩んでまいりましょう。

(この項、終わり)


第33回「マルコによる福音書5章24b〜34節」
(10/01/24)(その1)

 24b節「大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。」
 イエスは死にそうになっているヤイロの娘の癒しのためにヤイロ
の家に向かわれました。大勢の群衆もイエスの後に従いました。
「従う」という語は、「イエスの弟子になる」の意味で使われる場
合が多い語ですが、ここでは単純に「後について行く」の意味で用
いられています。その途中で事件が起きました。そのこともあって、
イエスはより大きなみ業をなされることとなります。それゆえ、本
日のテキストについて、マルコが別の日に起こった事件を、劇的効
果を高めるためにここに挿入したと考える人もいます。しかし、こ
の事件が別の日に起こったことを示唆する記述は何もありません。
また、前々回のみ言葉の取次ぎでふれたように、イエスはこの世に
人として生まれられて、「仕える」ことに徹したお方です。劇的効
果を狙うというようなことはイエスのご意図では全くありませんし、
福音書記者もそのイエスのご意図をきちんと受け止めています。イ
エスは大きなみ業をなさった後、しばしば「このことをだれにも知
らせないように厳しく命じられる(45節)」のです。
 今日のテキストは、後からくっつけられたものではなく、私たち
がしばしば直面する「困難に、さらに困難が増し加わる」という状
況解決のために、イエスが仕えてくださったことが記されているの
です。それでは、さらに増し加わった困難とは何でしょうか。

 25-26節「さて、ここに、十二年間も出血の止まらない女がいた。
多くの医者にかかってひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても
何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」

(続く)


(C)2001-2010 MIYAKE, Nobuyuki & Motosumiyoshi Church All rights reserved.