2010年06月27日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第30回「マルコによる福音書4章35〜41節」
(10/01/03)(その2)
(前号から続く)
そもそも奇跡とは、自然法則に反する、あるいは「自然法則に反
する」と考えられる出来事を言います。そして、このような奇跡を
起こすことの出来るのは、自然法則を超えた神的存在であると考え
られますので、宗教に奇跡は付き物なのです。日本では、奇跡のこ
とを霊験と言い、霊験新たかな出来事が伝えられてきました。神仏
の働きのあった証拠です。
旧約聖書の世界でも、神が奇跡をもってご自身を示される出来事
がありました。その最大のものが、出エジフトの際の紅海の奇跡で
す。海の水が自然法則とは異なる動きをして、その結果、イスラエ
ルの人々が助かり、エジプト軍が滅びたのです。
イエスご自身について言えば、イエスは神が人の姿を取られてこ
の世に来られた方であるからして、奇跡を行うことによって、ご自
身が神から来られた方であることをお示しになられたとしてもおか
しくはありません。ところが、マルコによる福音書においては、イ
エスが奇跡をもってご自身の神性をお示しになられることをお避け
になっておられることが記されています。たとえば、1:9-11、イエ
スが洗礼を受けられた時もそうでした。この時、奇跡は起きました。
天が裂けて聖霊が鳩のように降ったのです。しかし、マルコによる
福音書の記述によれば、これは、イエスご自身のみがご覧になられ
た出来事でした。さらに、イエスはご自身が神の子であられること
を隠しておられます。悪霊、デーモンたちには、イエスが神の子で
あられることがわかっていましたが、イエスは、デーモンたちがも
の言うことをお許しになられませんでした(1:25,34など)。逆に、イ
エスは、神から与えられた、「神の国、神の支配の到来を告げる」
というご使命に、地道に仕えられました。どこへでも出かけ、医療
活動と教えをもって神の国の到来を告げました。そして、最後は、
神の国、神の支配の実現のために、ご自身の十字架上での罪の贖い
のための死をもって、このご使命に仕えつくされたのです。
このような、イエスのご生涯の流れ全体から見ると、イエスのスー
パーヒーロー性を示す奇跡物語は異質に見えます。私たちは、奇跡
物語をどのように受け止めたらいいのか、今日はまず「突風を鎮め
る」物語について学んでまいりましょう。
35節「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』
と弟子たちに言われた。」
イエスが舟に乗られ、群衆が岸にいて、「種を蒔く人のたとえ」
を始めとする一連のたとえを語られたその日の夕方のことです。イ
エスが「向こう岸へ渡ろう。」と言い出されました。イエスは神の
国、神の支配を告げ知らせるために仕えておられるのですから、こ
ちら岸だけでなく、あちら岸へも行かねばなりません。向こう岸は
後に明らかになるように異邦人の地ですが、その地へも行かねばな
りません。神の国、神の支配は全世界に及ぶものだからです。
36節「そこで、弟子たちは、群衆を後に残し、イエスを舟に乗せ
たまま、漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。」
一緒に乗っていた弟子は十二弟子でしょう。新共同訳聖書は「漕
ぎ出した」と訳していますが、原文は「共に行った」です。あとで、
イエスと共に行った弟子だけが奇跡を体験することとなりました。
同時に漕ぎ出しても、たぶん最後まで一緒にはいなかったほかの舟
は、体験を共有できませんでした。舟を漕ぎ出すまでは、予定通り
の出来事でした。しかし、事は計画通りには進みませんでした。
37節「激しい突風がおこり、舟は波をかぶって、水浸しになるほ
どであった。」
天候の激変です。ガリラヤ湖ではしばしば起こることのようです
が、よりによって皆が船上に揃っている時に起こったとは、災難で
す。そこで、イエスはどうされたか、と言うと、
38節「しかし、イエスはともの方で枕をして眠っておられた。」
当時の舟では、一番後ろ(とも)が「舵取り」の仕事場でしたが、
その前が貴賓席でした。イエスはここでこぎ手のために用意された
枕に枕して眠っておられました。このイエスの態度は、決して傲慢
ではありません。イエスは一日中教えられて疲れておられたのです。
が、この災難に直面しての弟子たちの反応は極めてヒステリックな
ものでした。
38節後半〜「弟子たちはイエスを起こして、『先生、わたしたち
がおぼれてもかまわないのですか』と言った。」
新共同訳聖書は「おぼれても」と訳していますが、原文は「滅び
ても」です。弟子たちの恐怖は並々ならぬものでした。考えられる
理由は、十二弟子の中には四人もガリラヤ湖の漁師がいたことです。
彼らはガリラヤ湖の自然を熟知していたはずであり、つまりガリラ
ヤ湖で起こる突然の嵐がいかに危険なものかを知っていたのです。
それゆえ、彼らはおぼれる危険に止まらず、自分たちの命の危険を
全身で感じ取りました。そして、その恐怖、おびえが、こんな危機
のときにのうのとしているイエスへの非難となったのでした。
(この項、続く)
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