2010年05月30日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第27回「マルコによる福音書4章21〜25節」
(09/12/06)(その2)
(前号より続く)
要するに、「迫害下」の日本では、クリスチャンがあかりを寝台
の下においてしまっているのではないか、ということです。
2008年10月22日に日本基督教団から「教団50年データ」が出されま
した。それによれば、日本基督教団の教会では、信徒数が減ってい
ることと、減るばかりではなく、信徒の方がご高齢の方のみになっ
ていること、当然のことながら、財政が急速に悪化していることが、
明らかとなっています。さらに「別帳会員(一旦洗礼を受けられたが、
その後教会生活が途絶えた方)」が、全信徒数の4割近くを占めるこ
とも明らかとされました。教団の教会員の中には、明かりを「升の
下に」置いてしまわれた方が大変多いとも言えるのではないでしょ
うか。
厳しい現実を前にして、たとえは裁きを指し示すこととなります。
しかしながら、たとえが裁きを告げる謎として伝えられるというこ
とは、絶望ではなく、警告が与えられているということです。希望
があるということです。たとえがたとえとして聞かれるように、迫
害の中でも、あかりを消したり、覆い隠したりすることのないよう、
私たちには、光を受け止め続けることが求められているのではない
でしょうか。
22節「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘めら
れたもので、公にならないものはない。」
22節については、旧約聖書に同じ言葉がありませんので、その当
時の庶民の間で語られていた諺ではないか、と思われます。マタイ
10:27、ルカ12:3でも、イエスは同じ諺を用いておられます。マタイ、
ルカでは、人の悪意やファリサイ派の敵意が明らかにされるという
意味で用いられており、この諺は「悪いこと」について言われた諺
だったと考えられます。「悪いことをしたり、考えたりしても、ば
れるよ」、というわけです。
しかし、ここマルコでは、「よいこと」について言われています。
隠されているのは神の国、神の支配です。神は、人間があまりにも
罪深いものですから、ご自分を隠してこられました。(イザヤ書45:15
「まことにあなたは御自分を隠される神」)しかし、神の国、神の支
配を始められる決心をされたからには、その隠されていた愛のご意
思をも明らかにされる決心をされたのです。もちろん、その結果と
して、その愛を受け入れない者の裁きも明らかとなります。
23節「聞く耳のある者は聞くがよい。」
この諺を通して示された神の国、神の支配の始まりを、私たちは、
注意深く、たとえ迫害下にあっても聞き取ることが求められます。
24節以下は、本来は、イエス・キリストが別の場面で語られた言
葉のようです。いささかの不自然さはありますが、ここに挿入され
ることによって、私たちの「聞き方」が問われることとなりました。
聞き方次第、特に迫害下では、大切な恵みを逃しかねません。神が
イエス・キリストを遣わされて、神の国、神の支配を宣言されたから
には、私たちはそれを受け止めることによってのみ、救いの道が開
かれることを、もう一度覚えて、イエスと共に歩んでまいりましょ
う。
(この項、終わり)
第27回「マルコによる福音書4章26〜29節」
(09/12/13)(その1)
26節「また、イエスは言われた。」
今日はまず最初に、この短い、何気ない一言に注目してみたいと
思います。イエスは一体いつ、だれに向かって言われたのでしょう
か。先々週、先週のところですが、13節、21節は、新共同訳聖書は
「また、イエスは言われた」で始まっています。しかし、原文はど
ちらも「また、彼らに言われた」です。「種を蒔く人」のたとえの
説明も、「ともし火」のたとえも、どちらも、マルコによれば「彼
ら」に語られた教えでした。「彼ら」とはだれでしょうか。それは
10節にあるように、「十二人と一緒にイエスの周りにいた人たち」
つまり、弟子たちなのです。
イエスは湖で群衆に「種を蒔く人のたえ」を話されました。その
あとイエスは一人になられました。その時、十二人を始めとする弟
子たちがみ側に来て、たとえについて尋ねました。イエスはその問
いに対して、たとえが外の人にとっては謎になってしまう不思議を
語られました。が、迫害が起こると、弟子たちでさえ動揺すること
でしょう。その時、弟子たちが外の人になってしまって、裁きに遭
うことのないよう、イエスは弟子たちに警告されたのです。
さて、26節です。ここは、原文でも「彼ら」がありません。という
ことは、26節以下は、イエスが群衆に語りかけられた教えです。イ
エスは弟子たちのサークルを離れて、再びガリラヤ湖畔に戻られた
のでしょうか。マルコの流れから言うと、そうなります。
26節後半「神の国は次のようなものである。」
イエスは、「種を蒔く人」のたとえに引き続いて、たとえの原点
から教えを始められます。
(この項、続く)
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