2010年05月23日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第27回「マルコによる福音書4章21〜25節」
(09/12/06)(その1)

 今まで「種を蒔く人のたとえ」について学んできました。
 イエスは、たとえを神の国、神の支配を明らかに示すものとして
お用いになられました。けれども、しばしばたとえが見えなくなっ
てしまうことがあります。困難に出会った時、迫害に遭った時がそ
うです。そういう時、たとえは謎になってしまいます。「種を蒔く
人」のたとえについて言えば、悪い地に落ちた種の方がクローズアッ
プされてしまうのです。
 困難や迫害の時、教会を一番苦境に陥れるのは、迫害者本人であ
るよりも、教会内部の裏切り者、背教者です。日本におけるキリシ
タン迫害の時もそうでした。遠藤周作の小説『沈黙』の中の主要登
場人物の一人であるフェレイラ(この人は実在の人物です)は、転び
バテレンとして、多くの人をキリストから離れさせました。が、
「種を蒔く人」の解き明かしで、イエスが明かされたことは、こう
いう人はすでに永遠の罰に定められているということです。たとえ
が謎を生み、謎が裁きを指し示すごとく、神の国、神の支配の到来
は、従わない者にとっては裁きです。しかし、神の国の到来は確か
に保証されており、神に従う者にとっては喜びである神の国の到来
を、主イエス・キリストは伝え続けられます。

 21節以降は、イエスがいつ、いかなる場面で語られたかわかりま
せんが、神の国、神の支配を告げ知らせるたとえが続きます。
 21節「また、イエスは言われた。『ともし火を持って来るのは、
升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではな
いか。』」
 たとえとは、当時の庶民生活に根ざした、つまり当時のパレスチ
ナの人ならだれでもわかる話を用いて、イエスが神の国、神の支配
を指し示されたものです。ところが、21世紀の日本に暮らす私たち
にとっては、それが、あまりにも遠い時代の、遠くの出来事である
がゆえに、かえってわかりにくくなってしまっているところがあり
ます。
 まず、ともし火です。ともし火と言っても、今の特に若い方々に
とっては、ここにあるアドベントのろうそくとか、キャンドルサー
ビスのキャンドルとか、そのようなものしか思い浮かばないかもし
れません。しかし、原語でリュクノスと呼ばれるこのともし火は、
ランプのことです。夜、家の中を照らすための光でした。私の母は
大正4年の生まれでしたが、母が子どもの頃、その村には電気がき
ていませんでした。夜はランプをともしました。ランプを一晩燃や
すと、ホヤ(火のまわりを包むガラスの部分)が、煤で真っ黒になり
ます。それで、毎日ホヤ磨きをするのが子どもの仕事だったと聞き
ました。そんなに昔の話ではなくとも、昭和30年代でも、川崎市の
中には電気が来ておらず、ランプで生活している地域がありました。
 ですから、ここで言うともし火はそれぞれの家庭を夜照らす「あ
かり」です。当時はどこの家庭にもありました。そのあかりを一旦
つけたら、それを覆ったり、隠したりはしないで、部屋を明るく灯
すでしょう、というのがこのたとえの意味です。
 しかし、一つ疑問が残ります。「升の下」です。「寝台の下」に
ついては、子どもがいたずらにランプを寝台の下において、などと
いう場面が想像できるかもしれません。しかし、ランプを升の下に
置くという場面は、私たちにはなかなか想像できません。これにつ
いては、当時の生活について少し知る必要があります。当時の家庭
でよく使われた升は、9リットルほど入る乾料計(粉など乾いたもの
を量る)でした。この升の原語モディオスは、ラテン語から来た言
葉ですので、この升は当時のローマ社会一般に使われていたのでしょ
う。そして、当時の家庭では、ランプの火を消すのに、火のついた
ランプの上に、この升をかぶせていたらしいのです。窓のない当時
のパレスチナの家では、そうしないと、家中煙に包まれてしまった
からです。つまり、「升の下云々」とは、家の中を明るくするため
に点けたランプの火を、すぐに消したりはしないでしょう、という
意味なのです。
 結局、このたとえは、あかりを灯して、それを覆ったり、すぐに
消したりすることはないでしょう、との意味です。神の国、神の支
配の明るさを受け止め続けることが大切です。

 さて、しかしこのたとえは、迫害と困難の時代が来ると、ともし
火を灯してもそれをわざわざ升の下において消したり、寝台の下に
置いてわざわざ隠したりする人が出てくるでしょう、ということを
も意味しています。
 日本社会の中でキリスト教徒は今でも極めて少数派ですので、こ
のようなことは今の日本でも起こるかもしれません。陣内大蔵さん
は、11/7(土)に在日大韓基督教会川崎教会で行われたコンサートの
時に、こんなことを言っておられました。彼が歌手活動の途中で、
自分が牧師の息子であることをカミングアトしたところ、思いもか
けない人が、「いや、実はボクも」「いや、実は私も」とコッソリ
と告白してきたというのです。日本は、いまだに「隠れキリシタン」
の時代のようです。

(この項、続く)


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