2010年05月16日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第26回「マルコによる福音書4章13〜20節」
(09/11/29)(その2)
(前号より続く)

 実際この後、教会はもっと大きな迫害に何べんも遭遇するのです
が、今後は、教会で背教者、脱落者を出さないようにしなければな
りません。
 そのためにはどうしたらよいでしょうか。イエスを受難のメシア、
つまりイエスご自身も迫害にあわれたのだと捉え、しかもその受難
を逃れようとはされなかったと捉えることが第一に必要です。そし
て第二に、イエスが弟子たちに「私について来なさい」と勧められ
た勧めを正しく受け止めることです。ただ単に後をついていくとい
う意味ではありません。弟子たちも、そして教会も、イエスと同じ
ように受難を受け止めるようにという指示なのです。
 こうして、マルコによる福音書は、イエスの教えと業を正しく伝
えるという元来の目的と共に、迫害に耐えられる教会を形成すると
いう第二の意図をもって編集されたのです。その第二の意図が色濃
く出ている記事の一つが本日のテキストです。

 13節「また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。
では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。」
 また、イエスは言われた。」原文は「彼は彼らに言う」です。前
後関係から見ますと、ここは11節に接続します。イエスが十二人を
含む弟子たちに、たとえがたとえとして聞かれなくなることを警告
された後、「種を蒔く人」のたとえの解説に入られたのです。しか
しここでの「言う」という動詞は現在形です。一方、11節、21節、
24節は過去形です。前後と比較してここだけ現在形であるというこ
とは、マルコ編集の時点ですでに天におられるイエスが、今語って
おられることでもあるのです。イエスが語っておられる相手は、弟
子たちばかりではありません。教会にも語っておられます。
 「このたとえが分からないのか。」ここで「分かる」と訳されてい
る語は、「洞察をもって分かる」という意味の語です。イエスが「種
を蒔く人」のたとえを最初に語られた時、聞く人が直感で分かったは
ずの神の国、神の支配の喜びが、今、教会の時、迫害の中でわから
なくなって来ているのです。
 「では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。」ここで
理解すると訳されている語は、「経験によって知る」という意味の
語です。今教会は迫害を経験しています。迫害の中で、どうしたら
たとえが分かる道が開かれるのか、教会にとっては難題です。

 14-19節「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものと
は、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いて
も、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。石だ
らけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞
くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは
続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつま
ずいてしまう。また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。
この人たちは御言葉を聞くが、この世の思いや煩いや富の誘惑、そ
の他いろいろな欲望が入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。」
 ここで、私たちは、カルヴァンの予定説、特に滅びの予定の教理
を思い出します。カルヴァンの言うように、神は救われる者を天地
創造の前からお選びくださった(エフェソの信徒への手紙1:3-4)ので
すから、滅びる者をもお選びになっていらっしゃるはずです。しか
し、滅びの予定を明らかに示す聖書テキストはどこにもありません。
つまり、滅びの予定は、たとえあったとしても、それは神の国、神
の支配の下での秘密です。ところが、この秘密が、「種を蒔く人」
のたとえの解き明かしとして、迫害に悩む教会に少しだけ明らかに
されるのです。
 滅びに至る第一のタイプは、教会内部の腐敗者です。第二のタイ
プは背教者です。第三のタイプは少々説明を必要とするかも知れま
せん。「思い煩い」と訳されている語の意味は、「世話」「心配」
といった意味です。富の誘惑「誘惑」は、「欺き」「悪知恵」「裏切
り」といった意味です。いろいろな欲望とは、富以外の欲全部、権
力欲や性欲なども指します。ここでいう「この世の思い煩い」「富
の誘惑」「その他いろいろな欲望」は、どの時代でもだれでも抱え
ている問題です。が、この三つが重なって、しかも迫害の下では、
教会からの脱落を促すこととなります。
 しかし、これらの人々の滅びが、イエスが「種を蒔く人」たとえ
としてお語りくださった物語の中に、すでに謎として込められてい
たとするならば、神にあっては、すでにこういう人が出ることは想
定され、そして、その滅びは予定されていたということになるので
はないでしょうか。

 20節「よい土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる
人たちであり、ある者は30倍、ある者は60倍、ある者は100倍の実を
結ぶのである。」
 迫害が起こって、たとえ背教者が多く出たとしても、うろたえ、
慌てる必要はありません。神は、この物語が「たとえ」として語ら
れた時と同じ実りを用意していてくださることを、私たちは確認す
ることが出来ます。神の国、神の支配の喜びは確実に訪れるのであ
ります。

(この項、終わり)


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