2010年05月09日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第25回「マルコによる福音書4章10〜12節」
(09/11/22)(その3)
(前号より続く)
では、その滅びに至る「彼ら」はだれでしょうか。それは「外国
人」ではありません。イザヤの場合、神の業を見、言葉を聞いたイ
スラエルの人々でした。イエスが、同じ「彼ら」で指し示そうとさ
れたのは、やはり同じく「イエスの言葉を聞き、イエスの業を見た
人」です。その人々の中に「外の人々」がいるのです。そして、そ
れは、ファリサイ派や律法学者たちだけのことを指すとは限りませ
ん。今、「あなたがた」と呼ばれている弟子の中からも、イエスを
金銭で売り、滅びへの道を自ら選んだ者、「外の人」が少なくとも
一人は出たのです。
こうして、神の国の宣教が進めば進むほど、人間の、私たちの罪
の深さが明らかになってきます。ますます十字架が近づいてきます。
そして、神の国が完成するためには、私たちが救いの恵みに与るた
めには、どうしても、イエス・キリストの十字架がなくてはならな
かったのだということが、ますます明らかになってくるのでありま
す。
(この項、終わり)
第26回「マルコによる福音書4章13〜20節」
(09/11/29)(その1)
過ぐる週の講解説教で、「たとえがたとえとして聞けなくなる時
が来る」ということをイエスが言われたことを学びました。たとえ
は神の国、神の支配の実現を明らかに指し示すものであるにもかか
わらず、たとえを聞いても神の国、神の支配の喜びが感じられない
のです。たとえがたとえでなく、謎になってしまうのです。そして、
せっかくたとえを聞いても、「聞くには聞くが理解せず、立ち帰っ
て救われることがない人」になってしまうのです。どうしてそのよ
うな事態が生じてしまうのでしょうか。今日は、そこから話を始め
てまいりましょう。
神の国、神の支配の実現の知らせ、福音は、イエス・キリストに
よってもたらされ、十字架と復活によって完成しました。罪と死へ
の勝利です。しかし、復活のイエスは一部の人、使徒たちにしかお
現れになられませんでした。神の国、神の支配の完全な実現は、復
活の主イエスがすべての人に相見えるのは、この世の完成の時、終
末の時まで待たねばなりません。しかし、イエス・キリストによっ
て、神の国、神の支配は打ち立てられたわけですから、その神の国、
神の支配の実りは、イエスの復活以後、たとえ一部ではあっても実
現することとなります。それが異邦人伝道であり、教会の誕生です。
ところが、教会は、出来た途端、多くの問題を抱えることとなり
ました。
第一に内部の腐敗です。コリントの教会の有り様が典型的です。
昨日まで異教徒だった人が、クリスチャンになった途端、神の国、
神の支配の完全な知識を持っているかのような、完全な人になった
かのような顔をします。しかも、平気で不品行を繰り返します。挙
句の果てには使徒パウロの使徒性を否定し、パウロを罵倒します。
これが、現実の教会がしたことです。これでは、神の国、神の支配
の実現ではなく、サタンの支配の実現なのではないでしょうか。
第二に迫害です。パウロの手紙の中、最も早く書かれたとされる
テサロニケの信徒への手紙一のころ、テサロニケの教会はすでに迫
害の嵐にさらされていました。ペトロの手紙一が書かれたのはそれ
よりかなり後、90年代のことですが、この頃には、諸教会はドミテ
ィアヌス帝による組織的な迫害の嵐の中に巻き込まれています。迫
害の中では、棄教か勧められ、多くの者が神の国、神の支配の祝福
から脱落していきます。
そして、第三に、内部腐敗や迫害で教会が動揺している中で、教
会内も世俗的となり、教会が、神の国、神の支配のこの世での先駆
けとは到底言いがたい状況となっていきました。
神の国、神の教会は本当に来たのでしょうか。教会は本当に神の
国、神の支配の先駆けなのでしょうか。
さて、この教会の歴史と、マルコによる福音書とはどのように重
なるのでしょうか。
マルコによる福音書の中身はもちろんイエスの教えと業です。が、
マルコによる福音書が成立したのは、教会の時代、紀元70年頃のこ
とでした。
紀元後70年と言えば、折りしもローマ皇帝ネロによる教会大迫害
(紀元64-68年)の直後のことです。ネロ帝の治世の前半には(54-64年)、
迫害はありませんでした。使徒言行録によれば、使徒パウロはこの
時代にローまで暮らし、「全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣
べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた(使徒言行録28:31)」
と伝えられています。ところが、紀元後64年にローまで原因不明の
大火がありました。この大火の原因を無実のクリスチャンに擦り付
けるというところから、大迫害が始まりました。教会は多くの殉教
者を出す一方、多くの背教者、脱落者をも生み出しました。
マルコによる福音書が編集された当時、迫害の嵐は一時的に収まっ
ていたことと考えられます。しかし、教会はこのような迫害が再び
起こるのではないか、という不安の中にありました。
(この項、続く)
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