2010年05月02日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第25回「マルコによる福音書4章10〜12節」
(09/11/22)(その2)
(前号より続く)

 この尋ねた「たとえ」ですが、私たちの聖書、新共同訳聖書を素
直に読むと、「種を蒔く人のたとえ」を指す、つまり、「あの時お
話になられた種を蒔く人のたとえはどういう意味ですか。」と尋ね
たと受け取れます。
 ところが、たとえという語は複数形です。ということは、ここで
十二弟子を含む「クリスチャン」がお尋ねしたのは、種を蒔く人の
たとえだけではなく、それまでイエスが語ってこられたあまたのた
とえを取り上げ、「そもそもたとえとは何ですか。それをどう聞い
たら、受け止めたらいいのですか。」と聞いたということなのです。
ちなみに、協会訳聖書では、「これらのたとえ」と訳されています。
 ところが、この答えは、すでに「種を蒔く人」のたとえの中に含
まれていました。すなわち、たとえ話―それはだれにでもわかる易
しい物語ですが―から得られた感動と喜びこそ、神の国、神の支配
実現の時の喜びそのものだ、ということです。ところが、ここでの
イエスの答えは、マルコが挿入する場所を間違ったのではないか、
と言うひとがいるくらい、ピント外れです。

 11節「そこで、イエスはし言われた。『あなたがたには神の国の
秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示
される。』」
 イエスは、イエスが特に「教え」によってなしてこられた宣教活
動全体について、振り返られます。あなたがた、十二弟子を含む
「クリスチャン」には、イエス・キリストは神の国、神の支配の秘
密、すなわち神秘を打ち明けてきた。その打ち明ける方法が「たと
え」でした。ここではそのたとえの効用についてはふれられません。
 しかし、ある人々には、そうではありません。その神の国の秘密
が隠されている、というのです。ここでイエスがたとえという語で
おっしゃられていることは「なぞ」です。ある人々には、神の国の
秘密はなぞかけされて、わからなくされてきた、と言われます。明
らかに、ここでのイエスのお言葉は、たとえの説明であるよりも、
なぞの説明です。だとすると、本当にマルコは、挿入場所を間違え
たのでしょうか。
 そうではありません。マルコの編集作業全体について見てみると、
マルコがここでこの物語を挿入したのは、間違いであるどころか、
深い意図があったことがわかるのであります。
 第一章の講解のときにたびたびふれましたように、マルコは福音
書の冒頭から、イエスの出来事が救いの完成である十字架に向かっ
て一直線であることを明らかにして来ました。が、この神の国、神
の支配の完成は、ただの一直線ではありません。神の国の宣教の進
展と、それに影のように伴う罪の深化とが、ともに終局に向かって
突き進んでいくのであります。
 まず、医療活動です。イエスは、多くの医療活動を通して、神の
国の喜びを癒しの業という目に見える形で人々に示されました。多
くの人々は癒されて、その喜びに与りました。特に、2:1-12に記さ
れている中風の人は、癒しの業だけではなく、罪の赦しの宣言まで
与えられて、大きな喜びを味わいました。
 しかし、ほとんど最初から、この神の国の喜びのしるしである癒
しの業を見ても受け入れようとせず、イエスを否定する輩が出てき
ます。律法学者やファリサイ派です。喜びのしるしである癒しの業
を逆手にとって、律法違反であるとして糾弾し、3章6節では、もう
すでにイエス殺害計画を練るに至ります。こうして、イエスの十字
架は刻々と迫ってきます。
 4章に入り、イエスの宣教活動は、神の国の教えとして示されるこ
ととなります。種を蒔く人のたとえは人々の心を揺さぶり、人々は、
神の国到来の喜びを今度は聞くことによって味わうこととなりまし
た。
 ところが、この神の国到来の喜びを知らせる教えにも、聞いても
受け入れず、その喜びを否定し、イエスを否定する者が、「これか
ら」現れることを、マルコは伝えるのを忘れなかったのです。それ
が、この挿入です。1-9節で示されているように、本来たとえは神の
国の喜びを告げ知らせるものでした。ところが、ある人々には、そ
のたとえがそのままなぞ、躓きの石となってしまうのです。
 ところで、その「ある人々」とはだれなのでしょうか。その人々
は「外の人々」と呼ばれています。「外の人々」という表現は、新
約聖書では五回しか使われていない表現です。そして、ここ以外は
すべて「教会の外の人々」を指します。ゆえに、ここでも、本来は
「十二弟子とクリスチャン以外の人々」を指します。が、「十二弟
子とクリスチャン以外の人々」だけなのか、それをイエスは、イザ
ヤ書からの引用によって明らかにしています。

 12節「それは『彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、
理解できず、こうして立ち帰って赦されることがない』ようになる
ためである。」
 神のみ業を見ても、聞いても、受け入れない人々がいる、その人々
が滅びに至ることは、神がすでに想定それておられたことだ、とい
うことです。
 では、その滅びに至る「彼ら」はだれでしょうか。それは「外国
人」ではありません。

(この項、続く)



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