2010年04月11日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第23回「マルコによる福音書3章31〜35節」
(09/10/25)(その3)
(前号から続く)
さて、ファリサイ派は、家族において、この「父の愛」の伝統へ
の回帰を目指しました。しかし、制度を厳しくすることによってで
す。イエスの同時代のファリサイ派のラビたちは、家族における「父
の愛」を律法化しました。父親は子に対して、扶養とか自立支援と
いう義務を負うのに加えて、割礼を授けたり、律法を教える義務を
負います。もしこの義務を果たさなければ、「あの父親は子に盗っ
人となることを教えた」と言って非難されました。
しかし、制度で定めた愛は愛ではありません。族長制度がとっく
に崩壊したイスラエルで、かろうじて生き延びてきた「父の愛」も
こうして形骸化してしまいました。
イエスの目の当たりにしておられたのは、ご自分の家族をまさに
典型として、そういう家族なのです。イスラエルの家族はもうおし
まいです。イエスの厳しいお言葉の背景には、イスラエルの家族の
現状に対する厳しい現実直視があるのです。
34-35節「周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。
ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神のみ心を行う人こそ、
わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。』」
しかし、イエスは家族を再建されます。その根拠は「神のみ心を
行う」、つまり神の愛に基づいた隣人愛です。かつて創造の時に神
が恵みとして与えてくださった「慰めの共同体」の理念が家族を支
えてきたように、今度は、父なる神が子なるイエス・キリストを通
して示された「父の愛」を支えとして、新たに家族が再建されるの
です。が、これは、崩壊からの出発ですから、多くの困難と課題と
を伴うでしょう。しかし、イエスの愛を受け止めた人々、信じた人々、
すなわち「イエスの周りに座っている人々」からその事業は始まる
のです。教会はこのイエスのお言葉、指示に従い、ずっと「家族の
再建」という事業に取り組んできているのです。
日本においてはどうでしょうか。日本本土に最初に来られた宣教
師ヘボン博士が作られた辞書を見ますと、その当時の日本語には、
homeに当たる語が全くなかったことがよくわかります。日本の家族
には、家制度はあっても、「慰めの共同体」として家族という考え
方がそもそもありませんでした。日本では、家族は愛の共同体であ
る必要は全くなかったし、ないのです。ですから、家族が荒れる、
家族問題が多発する、当たり前の結果なのです。日本では、イスラ
エルと違って、愛の共同体の再建が求められているのではなく、ゼ
ロからの出発が求められています。この事業は、イエスを通して父
の愛を受け止めている教会が担うしかありません。私たち日本の教
会がこの大きな事業をどれだけ担っていけるのか、課題はあまりに
も大きいのですが、祈りつつ前進してまいりましょう。
(この項、終わり)
第24回「マルコによる福音書4章1〜9節」
(09/11/15)(その1)
本日より、イエスのたとえ話に入ります、たとえ話は、イエスの
教えを他の宗教、宗教者の教えと区別し、際立たせるものです。
そもそも、多くの宗教においては、人は「見ること」において神と
出会います。仏教においてもそうです。仏教では、どの寺院におい
ても必ずご本尊が安置されています。それは覚者(悟りを開いた者)
の像でして、永遠の仏陀のお姿そのものではありません。しかし、
人は、その像を見る、見つめることによって、悟りへの道を励まさ
れるのであります。
これに対して、聖書の宗教は徹底的に「聞く宗教」です。神は人
間に語りかけられますが、そのお姿をお見せになられることはあり
ません。旧約聖書の一番最初は創世記です。天地創造の物語です。
ここでは神お一人が主要な登場人物です。しかしながら、そこに神
のお姿は一切見えてきません。最初は暗闇でしかなかった世界に、
「光あれ」とか、「水の中に大空あれ」とか叫ぶ神の声だけが響きわ
たり、そして天地が創造されました。その後も神は語りかけられる
のみです。創造の時代が終わって、歴史の時代、イスラエルの時代
に入っても、神はひたすら人間に語り続けられます。そして、さら
に後の時代には、預言者を通して、最終的には聖書を通して、神の
言葉を語り続けてこられました。ゆえに、聖書の宗教においては、
人は聞くことによって、聖書の言葉に聞くことによって神と出会う
のです。
例外がないわけではありません。特にモーセは、「顔と顔を合わ
せて(出エジプト記33章)」神と出会いました。しかし、それはお姿
をモーセに見せるためではなく、モーセに語りかけるためでした。
聖書の宗教が「聞く」宗教であるということは、譬えて言えば、ご
本尊に当たるものが、「神の言葉」であるということです。人は神
の言葉に聞き、従い、それを実行することによって神を礼拝するの
です。旧約宗教のもう一つの完成であるユダヤ教の場合には、会堂
(シナゴグ)には像は何もありません。何もない長方形の空間に、神
の言葉が響き渡ることとなります。
(この項、続く)
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