2010年03月28日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第22回「マルコによる福音書3章22節〜30
節」
(09/10/11)(その3)
(前号より続く)
さて、この戦いにおいて、イエスはサタンに勝利したのでしょう
か。ルカによる福音書10:18に「わたしは、サタンが稲妻のように
天から落ちるのを見ていた。」とのイエスの言葉があります。イエ
スがサタン王国を潰す決心をされたその時より、サタンは神の完全
な敵対者と看做され、かつての神の子としての特権、神の許へ行く
という特権を失いました。しかし、人の罪がある限り、サタンはそ
の勢力を伸ばす余地があるのであります。サタンへの完全な勝利は
終末まで持ち越されます。
ヨハネの黙示録12章には、将来のこととして、サタンへの勝利の
様が描かれています。7-10節では、大天使ミカエルとその使いたち
が、サタンに戦いを挑んで勝利します。全人類を惑わすサタンはこ
こで地上に投げ落とされ、そこにキリストが再びお生まれになられ
て、世界を支配されることとなります。
もちろんこれは将来のことですが、イエスはこの終末の勝利まで
射程に入れられて、悪霊=ダイモニオンを追い払う業をしてこられ
ました。だとすると、イエスの悪霊祓いを冒瀆することは、神の救
いのご計画そのものを冒瀆することになるのではないでしょうか。
28〜30節「『はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒
瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に
赦されず、永遠に罪の責めを負う。』イエスがこう言われたのは、
『彼は汚れた霊に取りつかれている。』と人々が言っていたからで
ある。」
問題なのは、ファリサイ派律法学者の見解です。前回触れたよう
に、イエスの宣教のこの段階では人々はイエスのことを悪く言って
いません。悪く言っているのは新共同訳に見られる「人々」ではな
く、彼ら(律法学者たち)(協会訳)です。
イエスがおっしゃられたいことは29節です。イエスの悪霊祓いは
、終末におけるサタン王国撲滅という神のご計画に向けての働きで
す。そのイエスの働きを冒瀆することは、神のご計画そのものを冒
瀆することであり、すなわち神の真実であられる聖霊を冒瀆するこ
とです。この冒瀆をする者に永遠の罰を負うことを覚悟せよ、との
警告です。
もちろん、イエスの十字架の贖いによる罪の赦しは完全です。28
節の「人の子らが」と訳されているところ、「人の子らに」と訳す
こともできますし、その方が意味は明確です。マルコによる福音書
では、「人の子」という語が用いられるのは、2:10、2:28に次いで
三回目です。前二回はいずれもイエスを指しました。「人の子ら」
とは、ただの人ではなくて、イエスも含めて神から遣わされた者の
総称です。その「人の子ら」への冒瀆の罪さえ、イエスは十字架上
で負ってくださいました。が、そのイエスを遣わしてくださった神
のご計画そのものを否定してしまったら、救いはないのではないで
しょうか。
本日のテキストで登場する人々は反面教師です。業を目の当たり
にしながら、イエスを受け入れることをせず、救いを否定すること
のないよう、心して神に聴く者でありたいものです。
(この項、終わり)
第23回「マルコによる福音書3章31〜35節」
(09/10/25)(その1)
31節「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを
呼ばせた。」
マルコによる福音書3:20〜30の物語の続きです。それゆえ、シモ
ンの家での出来事の続きとも考えられます。が、シモンの家で他の
群衆に紛れて、他の身内の者と共にイエスを取り押さえようとした
家族が、同じ場面で今度は外に立ち、人をやってイエスを呼ばせる
という状況はちょっと考えられません。
ですから、この出来事はシモンの家での出来事の続きではなく、
日を改めての出来事と考えられます。
「イエスの母と兄弟たちが…」
母マリアと、6:3に名前が挙がっている四人の兄弟(弟たち)でしょ
う。父がいないのは早世したからでしょう。皆で外に立っていたの
は、遠慮していていたからではなく、人の壁で中へ入れなかったか
らであると考えられます。彼らが人をやってイエスを呼ばせました。
場面は変わっていますが、シモンの家での出来事の時と同じく、イ
エスを取り押さえるため、と考えられます。
32節「大勢の人が、イエスの周りに座っていた。『ご覧なさい。
母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます。』と知らさ
れると」
群衆がイエスの周りを取り囲んでいたことは、前回シモンの家で
の出来事の時と同じです。その群衆がイエスに対して好意的であっ
たことも前回と一緒です。しかし、前回と違って、その群衆はイエ
スの周りに座っていました。この人々は、明らかにイエスの話を聞
くために集まっていました。今回の群衆はイエスに癒しを求めると
ころから、イエスを「信ずる」ところまで進んだ群れです。それで、
原語ではこの人々のことを20節と同じく「群衆」と記しているので
すが、新共同訳では「大勢の人」と意訳しているのです。
(この項、続く)
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